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#20 ニュージーランド蹴破り日記その2-6
夕方、宿に戻ると、とてもお腹が空いていた。フェリーでエネルギーを使ったせいか、その後胃腸の調子を崩したせいか。なかなかお腹がいっぱいにならず、りんごを二個、ミートパイを一個、食パンを四枚、ハムを二枚、スライスチーズを四枚食べた。
私はその後に備えていたのだ。その後には「キーウィ・スポッティング」のツアーが待っていた。
キーウィには、いくつかの種類がある。スチュアート島には、「スチュアートアイランド・キーウィ」がいる。マオリ語では「ラキウラ・トコエカ」という。
動物園の暗がりで初めてキーウィを見た時から思っていた。
「野生のキーウィに会いたい。もっとその姿をよく見たい!」
夜の森を二、三日歩いて、自力でキーウィを観察する人も多いようだが、多方面において素人の私は迷わずプロの力を借りることにした。ツアーは七時に始まった。
今朝乗ってきたものよりやや小さいサイズのフェリーに、一人の操縦士と、二人のツアーガイドと、十三人の参加者が乗り込んだ。フェリーは今朝乗ったものと同程度に、よく揺れる。「まだアネロンが効いているから大丈夫だ」と思いながらも、この揺れは辛い。
森でキーウィを探す前にも色々な生き物を見るらしく、参加者全員に双眼鏡が配られた。船が停止する。双眼鏡を目に当てる。するとイエローアイドペンギンの群れが見えた。海に潜ったり、陸に這い上がったりしている。双眼鏡越しに、小さく見える。小さいけれども目の周りが黄色いのが分かる。
その後も船は何か所かで停止した。アシカや、ブラウンギルという鳥や、モリモークというアホウドリの仲間を見た。みんな熱心に双眼鏡を覗いていたが、私は波の揺れの中でそうするのが嫌になってしまって、岩を眺めたり見事な夕日を眺めたりしていた。
二時間弱のクルーズの後、キーウィ・スポッティングの現場に着いた。双眼鏡を返却し、代わりに光の弱いライトが渡された。簡単なレクチャーの後、二手に分かれて森へ入った。私は後発隊の一番後ろで歩き始めた。
夜の森は、案外静かだ。遠い波の音だけが響いている。空に半月と、たくさんの雲が浮かんでいる。はっきりした半月を大きく囲む、黄色い光の円がある。その円は赤い線で縁どられている。
キーウィは、音や光にとても敏感らしい。きれいな女性のガイドさんの後ろに六人が続き、そろりそろりと歩いていく。足場の悪い場所や、木の枝が進路を妨げている場所は、ガイドさんがライトで照らしながら通過する。その後に続く人も、ガイドさんを真似てライトで照らす。最後尾の私は、よく分からないまま皆の動作を真似ていたが、「これは伝言ゲームであって、私はただ受け取るだけでいいのだ」としばらくしてから気が付いた。
森に入って、ほんの十分少々が経ったころだ。ガイドさんがライトの光の色を赤に替えた。ナイトスコープで周囲を見回したのち、その光を、左に向けた。息をひそめた興奮の様子が、前から順に伝わってきた。
「あそこにいる。見える?」
私の前にいる中国人の女の子が小声で教えてくれた。
「見えない」
と言った直後、丸いものが動いて、森の奥へと消え去った。
「見えた!」
キーウィだ。すぐに光の届かない場所へ行ってしまったので、一瞬だった。しかし確かに見えた。動物園で「丸い」と思ったその後ろ姿は、赤い光に照らされてみると鈴カステラのようだった。鈴カステラに、指の長い、細い足が、にょっきと二本生えていた。
ガイドさんがゆっくりと茂みに入った。私たちも順に後を追った。するとすぐに、ガイドさんのいる方向、森の奥のほうから、先ほどのキーウィがまた現れた。
キーウィは、横一列に並ぶ私たちのちょうど正面、視線の先三メートルから五メートルほどのところを、十分少々さまよった。私たちは息をのんで視線を注いだ。
鈴カステラのような身体は、立派な毛並みに覆われている。あの毛並みはどのような手触りなのだろう。赤い光の中では、伺い知ることができない。あの丸い背中を撫でることができたらいいのに。
直径三十センチメートルほどありそうな、大きな鈴カステラからは、細い首と、小さな頭と、その先にさらに細長い嘴が突き出していた。アンバランスに見えても、細い二本の脚で器用にバランスを取った。左右交互の脚の動きは止まることなく、身体を左右に揺らしながら、転がる木や石を乗り越えていく。そして首を左右に振りながら、細長い嘴で土の中や草の間を探っている。この首と嘴の動きがなかなか機敏だ。真剣に餌を探しているのが分かる。途中、嘴を開くのを一度だけ見た。その細長い竿のようなものが嘴であることが、初めて分かった気がした。
突然、キーウィがこちらに進路を向けた。七人のうち右端に立つ私の方へ、横たわる木をよちよち乗り越え、向かってきた。二メートル、一メートルと、距離が縮まる。止まらない。そしてゼロメートルになった。
キーウィは、私の右の靴をつついた。硬い嘴と靴の繊維がこすれる「カリカリ」という音が聞こえた気がした。首を動かし、位置をずらしながら右靴を五回ほどつつくと、次は左靴の前に移動し、またつついた。それも三回ほどでやめると、私の左手のほうへ身体の向きを変え、歩き始めた。左靴の先端を、キーウィの左足が少しだけ踏んだ気がした。
そのままキーウィは、興奮が湧き上がる七人の足の先を通り過ぎた。そして、
「面白いものは何もなかった」
とでも言うように、脚を交互に動かして、身体を左右に揺らしながら、森の奥へと去っていった。その後ろ姿は、私にはやはり、細い足を二本生やした鈴カステラに見えた。
「先ほどのキーウィは身体が小さかったから、オスの子供だろう」
と、その後ガイドさんが教えてくれた。そして森を抜けた先の浜辺で、私たちはまたキーウィを探した。ガイドさんは、
「これをキーウィが採りに来るのだ」
と言って、砂浜から顔を出す小さな海老のような生き物をライトで照らした。キーウィやアシカや鹿の足跡や、ウミブドウも見つけて教えてくれた。キーウィの足跡は大きかった。十五センチくらいありそうだ。そしてウミブドウも大きかった。直径十五ミリか二十ミリくらいの茶色い粒だった。
しかしなかなかキーウィは現れなかった。ナイトスコープを覗いて真剣に探すガイドさんの傍らで、私たちは夜の海や空を眺めた。夜の浜辺は、月の光でとても明るかった。
「あれがサザンクロスだ」
と言って、中国人の女の子が空を指した。雲がだんだん少なくなって、星がよく見えるようになっていた。
結局その日に見たキーウィは、初めの一羽だけだった。どこかで鳴き声を聞いてみたかったけど、近くで見られて満足した。帰りの船が動き出すと、揺れを感じる間もなく眠りについた。