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ヒトのかたち 好奇心と持続性
長野県佐久穂町に約4,000年以上前、縄文後期に作られた巨大な石棒が田んぼの真ん中に立っていた。「いた」と過去形なのは、現在その石棒は保存のため室内に保管、展示されているからだ。近いうちレプリカを同じ場所に立てるらしい。
石棒は縄文の頃、信仰の対象物として作られた。群馬県下仁田町には縄文時代の石棒の生産地だった遺跡があり、下仁田産の石棒が関東一円に流通していたという。
石棒は家の中、集落の中心に祀られていたらしい。今日でも、御神体が石棒である神社は各地にある。諏訪信仰の源流といわれる「ミシャグジ信仰」の御神体もまた石棒であるという。
その形状から分かる通り、石棒は男根をモチーフとしている。生命力の象徴として、縄文の人々が信仰の対象物としたのだろう。天を穿つ男根。佐久穂町の田園に屹立していた石棒を見る時、その創造のエネルギーをひしひしと感じる。
さて、その男根たる石棒と対とされるのが石皿である。現代でも各地の産泰神社に安置されていたりする。安産祈願の対象物である。
石棒と対のことが多い石皿のモチーフは女陰である。体内に新たな生命を宿す女性器の神秘性を祀ったのだろう。
天を突く石棒と、円環を示す石皿。これらはヒトの原型を象徴している。
石皿の上に石棒を置くとそれは、ネイティブ・アメリカンのメディスンホイールと酷似してくる。石皿の円周は人生の四季を示し、石棒はより高みを目指す志向性を示している。
石皿の円環は「時」を表す。有限を紡ぎ無限に至る生の営みを象徴する。
石棒の志向性は「認識の拡大」を表している。アダムとイブがエデンの園で口にして以来、ヒトの中に取り込まれた「好奇心」そのものである。
ハラリの言うところの「認知革命」によりフィクションを信じるという能力を手にしたホモ・サピエンスは、その力によりダンパー数(動物が仲間を意識できる最大数。約150程度)を易々と超え、何千何万という集団を形成することが出来るようになった。その時のフィクション(ストーリー)を「宗教」「神話」という。この力により、サバンナの弱小生物のひとつに過ぎなかったホモ・サピエンスは自分たちよりはるかに優秀な身体的・頭脳的能力を持ったホモ・ネアンデルタールをも駆逐し、地上の覇者となった。
またフィクションを信じる力は「仮説を立て、検証する」という思考を可能にした。科学的アプローチが可能になった。これによりヒトの「好奇心」は解き放たれ、同時に「進化の外部化」に成功した。
仮説を立て、検証し、前の仮説を否定し、新たな仮説を立て、さらに検証する。この行為の繰り返しにより、ヒトの認識はやがて宇宙の果てから量子世界にまで拡大した。石棒の示す志向性は、ヒトの世界を飛躍的に拡げることになった。
ここまで世界を拡大してきた人ではあるが、そのためには膨大な時が必要だった。数百万年にも及ぶ時間は、有限を紡ぎ無限へと至る円環=石皿の能力によってもたらされた。
原初の「在れ」という情報に忠実な機能である生殖は、ヒトの発達に要する膨大な時間を提供し続けてきた。「認識の拡大」という石棒の志向性は、石皿の時を紡ぐ機能無しには実現し得ないものだった。長くても100年足らずでその機能を停止する現世の器たる肉体は、生殖によりその事業を次代に継承することで、その目的を果たしてきた。
かように石棒と石皿は不可分な機能をそれぞれ有して今日まできたのである。
が、石棒の持つ「認識の拡大」という志向性は、その能力ゆえに石皿の「時を紡ぐ」能力を侵食することになる。
認識の拡大はさまざまな価値観を生み、また、根元の力への探究心は、ヒトの力ではコントロールし得ない領域まで手を伸ばした。
かつて中世の錬金術師たちは、ヒトにはコントロールし得ない知識は、秘儀・密儀としてごく一部の者たちで隠匿し、知識の無節操な拡散を禁じていた。自らの力を超える知識がヒトの世を破壊する可能性を危惧していたのだ。
しかし、やがて知識は一般に公開される道へ向かう。そのおかげで科学的進歩は飛躍的に加速したが、同時にかつて錬金術師たちが危惧していた通りの事態となった。ヒトは自らを何十回と絶滅させることができる力を得た。石皿の能力「時を紡ぐ力」を否定できるほどになった。ヒトはフェルミの言う「進化の門(グレートフィルター)」の前に立たされることになった。
この、いずれは対立する二つの力を、石棒や石皿、メディスンホイールとは別の形で象徴したものがある。
ユニコーン(一角獣)とバンシー(獅子)である。
中世ヨーロッパのタペストリー等に好んで描かれたこの獣たちは、ユニコーンは「希望の獣」、バンシーは「大地の裁定者」として描かれる(ちなみに、我が国の皇室にも同様のモチーフがある)。
ユニコーンは常にバンシーに勝てない。増えすぎた希望の獣は、大地の裁定者に駆除される運命にある。これは「進化の門」の機能と同義である。
対立しうる二つの能力(性といってもいい)を持つが故に、ヒトはそれらの能力のバランスを維持することを求められる。更なる認識の拡大を(これは好奇心の本質である)求めるなら、同時に膨大な時を担保する円環の力を保持し続けなければならない。この努力のみが「進化の門」を通過する唯一の方法である。
詳しく調べたわけではないが、北欧神話に描かれる「世界樹(ユグドラシルの木)」もまた、同様のものであろうかと思う(木の根元では日々の生活が営まれ、大樹は神の世界と繋がっている)。
ともかく、「ヒトのかたち」は、天を目指す男根(矢印)と、その根元で時を紡ぐ女陰(円)で象徴できると、私は考えている。