『SAND LAND』と権力構造

鳥山明さんが亡くなった。で、改めて氏の作品『SAND LAND』を読み返してみた。

『SAND LAND』は『ドラゴンボール』等に比べマイナーな作品だが(でも一昨年アニメ化された)、出てくるメカがカッコ良くて好きな小品だ。
あらすじをざっくり言うと、水を支配する王様に統治された砂漠の国が舞台で、「幻の泉」を探す男と魔物の冒険譚だ。
これを読むと、権力構造とはいかに成立するかよく分かる。「ある」ものを「無い」「足りない」と言うことで自らの優位性を強固なものにしていく手法だ。水が「無い」とされたSAND LANDでは、水は奪い合いになるほど貴重なものだった。しかし実際は、王様が自らの権力のために泉を独占し、わずかな量しか人々に与えなかったために起きているに過ぎない「作られた不足状態」に過ぎなかった、と言うストーリーだ。私たちの現実社会と酷似しているとは思いません?

私は貨幣とは貸し借りの記録に過ぎず、自国通貨建ての国債を発行する国には財政破綻は有り得ないとする『MMT理論(現代貨幣理論)』に納得する者だ。
国は貨幣発行権を持っているという点で、個人の家庭や企業、地方自治体と違う、言わば調停者であり「ルールメイカー」である。
貨幣(お金)は、個人や企業が銀行から借金をした時、そして国が国債を発行した時に初めて生まれる(信用創造)。
税とは、お金をお金として流通させるための動機付け、根拠となるものであり、インフレ・デフレの景気の調整手段、貧富の格差是正、政策誘導の手段である。
以上が、私の理解するMMTの主張だが、その視点から見ると現在の日本はお金について、正に『SAND LAND』化状態にあるのではないかと強く感じているわけだ。

今から20年近く前、私は地方議員をしていたが、その頃政治の世界はプライマリーバランスの黒字化、その為の緊縮財政、身を切る改革全盛期であった。介護の世界からズブの素人として政治の世界に足を踏み入れた身としては、そうした社会の風潮をもろに受け、「緊縮財政!事業仕分け!次の世代に借金を残すな!」と率先して旗を振っていた。しかし同時に我が生業としていた介護の世界の現状を考えるに(高齢者は増える、人は減る)、「なんだ、日本詰んでるじゃん」と内心感じていた。
そんな旗を振りながらも絶望していた私は数年前、MMTを知った。
目から鱗、だった。長年の懸念が晴れた思いがした。「なんだ、お金はあるじゃん。やるべき事はやれるんだ」。コペルニクス的転回だった。

このMMT、実はそんな突拍子のないものではない。日本においてもその実践が行われた時期があった。
昭和恐慌の際、時の大蔵大臣高橋是清が行った政策がそれである。勿論当時MMTというものはなかった。が、高橋は直感的に、景気の悪い時は国が財政出動し、良い時は税によって引き締めるという政策を断行した。これにより日本は、アメリカでニューデール政策がおこなわれるより早い時期に世界恐慌の嵐から脱することができた。
以上の教訓は、日本以外の先進国では今も生かされていて、コロナ禍の際、各国は大胆な財政出動や減税政策を行い、コロナ不況を乗り越えた。日本だけがどういうわけか過去の経験を活かせず、未だ長い経済の低迷状態にある(GDPもドイツに抜かれ4位になり、実質賃金も30年間上らないままだ)。
かつてはできたことなのに、なぜ今、日本ではできないのか?

シューペンターは言う。
「信用貨幣論の理解無くしてイノベーション、資本主義は語れない」と。
シューペンターはイノベーション理論で有名な約100年前の経済学者だ。そのシューペンターの理論は「信用貨幣論(貨幣は企業もしくは個人が借金した時に生まれる)」を土台に成立するものだ。
確かに、「商品貨幣論(貨幣の量は有限である)」の世界観の中でも似たように見える事象は起こり得る。ただ、所詮全体量が決まったゼロサムゲームなので、当然の如く格差は拡大し、持つ者・持たざる者の差は極大化する。対し、信用貨幣論を土台とした世界では、イノベーションが起こる際には新たに貨幣が創造されるので、当然市場は拡大し、より多くの人々がその恩恵に預かることになる。
ん?何か引っ掛かるぞ。
そうか、「商品貨幣論」の世界は既存の「持つ者」にとっては都合が良い世界なんだ。
商品貨幣論では貨幣量は有限であるから、搾取というファクターがなければ「持つ者」は成長が出来ない。反面、貨幣量が有限であるがゆえに相対的に貨幣価値は上がり、「持つ者」の権力は増大することになる。また、イノベーションに必要な資金も独占出来るため、新たなライバルの誕生を心配する必要もない。同じく「持つ者」同士談合してさえいれば、その地位が脅かされることはないわけだ。
結論、商品貨幣論者はデフレが好きなのだ。
対して信用貨幣論では、イノベーションに際し貨幣創造が行われるから、小さなスタートアップ企業であっても個人であっても、アイデアと努力次第で市場食い込むことが可能だ。「持たざる者」が「持つ者」に逆転することが可能なのだ。反面、既存の「持つ者」たちは大変だ。常にライバルの出現に怯えなければならないし、談合で保身を図ることもできない。創造された貨幣が市場に供給されるから、当然貨幣価値も下がる。
信用貨幣論はインフレを前提とする(断っておくが、インフレにも種類があって、現在の日本のような「コストアップ型」インフレではなく、「デマンドプル型」インフレを指す。同時に際限ないインフレを求めているわけでは当然、ない)。

『SAND LAND』の世界はデフレの世界である。商品貨幣論の世界である。人々にチャンスも希望も与えず、既得権益者のみが「我が世の春」を謳歌する歪んだ世界だ。
経済の目的が「経世済民」であるならば、やるべきことは明らかだ。かつて高橋是清が行った如く、ケインズが、シューペンターが論理立てて主張した通り、信用貨幣論に基づいた経済施策を実行すべきなのだ。

若い人にとっては迷惑かもしれないが、私は今の若い人たちが可哀想でならない。私の世代はバブル期に引っ掛かっている世代だ。バブル期が良かったなどと両手を挙げて肯定しているわけではないが、少なくとも「今日より明日は良くなる」「努力は報われる(ことが多い)」と信じられた。安心と希望があったように思う。対して、特にこの30年間に生まれ成人した若者たちだ。自分たちの頭の上には分厚い暗雲しかなく、その上に青空があることなんて想像もできない。経験したことがないからだ。だからこそ多くの若者の思考は短視眼的にならざるを得ない。「金だけ、今だけ、自分だけ」というわけだ。そうならない若者も、自分と親しい仲間たちだけの「優しい世界」に引きこもってしまう。
おじさんの決めつけかもしれないが、身の回りの人々を見るたび、話をするたびそう感じてしまうのだ。これを新しい価値観の始まりのようにのたまう学者もいるが、選択肢も狭められている中で生きていくには適応せざるを得ないではないか。そんな、私から見ればアンフェアな環境下で生まれる価値観なんて、どうにも信用できない。
人々に安心と希望を与えられない世界なんて、ナンセンス極まりない世界だ。

『SAND RAND』からだいぶ脱線してしまったかな。でも言えるのは、砂山から顔を出して、ぐーっと首を伸ばせば違った景色が見えてくる、という点では同じだ、よね?

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