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day136 Facebookをしばらく休んでみることにした。
昨夜、思い立ってFacebookをしばらく休むことに決めた。
アプリは残しているが、ホーム画面から見えない位置に移動させて、通知もOFFにした。
気がつけば、ちょっと依存的になっていた。
イイねが付いたりコメントがあったりすると嬉しくなる反面、通知を開けば別の友達へのコメントのお知らせだったりもして、いや何故わたしではないのだ、と苛ついたりもして。
そして何か投稿しようとアプリを開けば、特に見るつもりでもなかった他の人の投稿をうっかり見てしまう。
他人のタイムラインの人気っぷりを横目で見たり、なんか分からない怒りに満ちた長文の投稿を目にしたりとか、なかなか心中穏やかでは居られないな、と改めて感じたのだった。
これまでは、仕事のことやZINE『はぐみ』のことでFacebookを業務として使わざるを得ない部分が少なからずあったが、それがない今、わざわざ開く必要性すらないように感じている。
昔、検索サイトをYフーさんに設定していた。仕事で何か調べものをしようとすると、ニュースの見出しが否応無く目に飛び込む。
なんだよコレ、くだらないなぁと思った瞬間、Gグルさんに切り替えたことを思い出す。こちらはニュースを非表示にできるからいい。
Facebookのタイムラインは、友達、知り合い、まったく知らない人もごちゃ混ぜの、めっちゃ人混みの中にいるような気分だ。
いい話をしている人たちもいるし、愚痴をこぼしまくる人たちもいる。大勢の仲間たちに囲まれる人気者も、少数の仲良しとつるむ人も、周りの会話にただ聞き耳を立てている人もいる。
元来HSPなのもあるのかもしれないけれど、ネット上でも人混みはやはり苦手なんだなぁと感じている。
声の大きな人が、喋りの上手い人が、たくさんの人を集める。その声に、やる気も一緒にかき消されていく。Facebookのシステム上、声の大きな人がより多く表示されていくのだから、これは仕方ないことなのだ。
友達、という定義はいつも曖昧だ。
Facebook上にもそんなに多くの[友達]はいないが、リアルに[友達]と呼べる関係性ってどんなものだろうか。
今のご時世、リアルに会うことはだいぶ憚られているけれど、悩みを打ち明け合ったり、これからの展望を話し合ったり、それが業務という形ではなくおこなわれるのが理想だ。
が、いかんせん他人の悩みを聴くのが仕事だったりもするため、その線引きが難しい。
そんな訳で、まずは一旦Facebookから距離を置くことに決めた。
今朝、いつものようにスマホを手に取り、我にかえる。タバコをやめられない人ってこんな感じなのだろうか。
別に友達は少なくて構わない。多ければ良いとも思わない。でも一定数、分かり合える友がいるのが理想だなぁ。