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「自己犠牲的献身性」に人生の意味を見いだす生き方を左派的に考える

年齢意識と政治理念(思想)

 わたしの政治理念。ずっと今もかわらず「左翼/リベラル」(=左派)の立場である。日本社会はダメだから、社会を少しでも良い方向に変えたいと思ってきた。生活保障としてのベーシックインカムをガチで考えていたし、働きたいひとは働き、たとえ働かなくても最低限の生活ができるようになれば社会はもっと良い方向に変わると思ってきた。しかし、こういう主張が自分の生きている間に実現することはほぼ不可能に近いと思うようになった。うすうす感じてはいたが、そのような実感が深まったのは今年に入ってからである。 

 おそらく、年をとって自分の人生の残り時間を意識しだしたことが影響していると思う。若いときはまだ自分の人生の短さを意識する機会は少ない。だからZ世代の若者たちは気候変動のような長期的問題でも「自分たちの世代でどうにかしなければ…」と何の疑いもなく真剣に考えることができる。でも、「自分はもう若くない、自分の残された人生の期限内では社会は良い方向に変わりそうにない」と悟ったひとたちは、今まで通り変わらない生活を肯定して保守化するか、諦めてミーイズムに閉じこもるか── 現実的にはそのぐらいの選択肢しかない。

 ドイツでは「30歳未満で左翼じゃない者は心がない、30歳以上の左翼には脳がない」という箴言がある(Netflix『そして明日は全世界に』)。これは「年齢意識」と政治理念には何らかの相関性があるということを示唆している。左派が急進的になりやすいのは、自分の人生の内部で社会変革をしなければならないと思ってしまうからだ。これには無理がある。ひとりの人間が生きる時間には限りがあるし、社会が変化するスピードはそう簡単に早くはならないからだ。ときに革命に暴力が必要とされるのは、社会変化のスピードを暴力によって劇的に早めたいからである。

 左派は自分の生きている間に自分たちの手で今の社会を良い方向に変革したいと思っている。これが左派的な人生の生きる意味(=実存)となっており、自分が生きている間に社会変革を少しでも進めたいと願っている。

左派的人生の実存的危機

 しかし、左派的な政治理念は実生活と両立しがたい。1960年代後半、学生運動(新左翼)のムーブメントがあった。この運動はあっという間にミーイズムと保守化によって退潮してしまった。新左翼の学生たちは自分たちが敵視していた資本主義的企業の「サラリーマン」になっていった。左派が重視する「平等」や「人権」といった政治理念は実生活(賃労働や消費など)から実感的に遠くかけ離れているため、日々の生活を優先すると政治理念は遠のいて保守化していく傾向にある。

 それにくらべて右派(保守や右翼)は政治理念と実生活の両立が容易である。右派には「家族」という人生の意味のフォーマットが用意されている。結婚して子どもをつくり、家族を養うために働く──。これが右派が提供する人生の意味であり、家族をつくることによって次の世代へと文化の継承がおこなわれる。家族は「国民国家」のナショナリズムへと接続され、個人的な人生の意味と政治理念とが結合している。

 右派的な政治理念は個人の人生のスパンを超えているのにたいし、左派には社会変革の実現を次の世代へと繋いでいく「継承」という物語が共有されていない。だから、左派は自分の人生を超越したビジョンを描くことができず、短い個人の人生の時間内で社会変革を実現させようと必死になる。若いうちはこれでもいいが、年をとってくればそのような政治理念には実現性がないということがわかってくる。しかも、社会変革の実現という政治理念は実生活とうまく噛み合っていない──変革によって、かえって生活が不安定になる可能性がある──ため、左派的な生き方は実存的な危機に陥りやすい。

 わたしの人生の残り時間は短い。自分が生きている間には日本社会は良い方向に変わることはないだろう。おそらく、いま以上にもっと悪くなるはずである。残された道は以下の3つ。自分の政治理念を保守化するか、ノンポリになってミーイズムに閉じこもるか、何も変わらない(あるいは今以上に悪くなる)ことを知りつつも社会変革の実現へとコミットし続けるか──。

「革命的自殺」と「反動的自殺」

 1966年、米国に黒人解放運動の組織体「黒豹(ブラック・パンサー)党」が誕生した。黒豹党は「黒人コミュニティーづくりにもとづいた画期的な黒人解放運動、革命運動を実践」した組織である。黒豹党のメンバーで創始者でもあるヒューイ・ニュートンは『白いアメリカよ、聞け』(1975年)という自伝のなかで「革命的自殺」( revolutionary suicide)という思想を提唱した。革命的自殺とは、一言でいうと〈「私」を捨てて「私たち」のために生きること〉である。ニュートンがいう「私たち」とは黒人コミュニティーをさしている。よって、革命的自殺の思想はたんなる左派の思想ではなく「コミュニタリアン 左派」(共同体 左派)の立場にちかい。自分の人生のスパンを超えた共同体の共通善のために自分の人生のすべてを捧げる。革命的自殺は《…死んでいった者たちと、これから生まれてくる者たちのための、われわれにできる偉大な飛躍であり任務である》。そして、《…この砂漠のような現実はけっして閉じた輪ではなく、螺旋であるということを学ばなければならない。この砂漠を突き抜けたとき、すべてが変わるのである》。そうニュートンはのべる。

 革命的自殺が《希望と願望を抱きつづけ、生を選択する》ことであるのにたいし、「反動的自殺」とは《破壊と絶望》の道を選択した自己破滅的行為をさす。反動的自殺の特徴は、変革的実践の基盤となっていたコミュニティから遊離・離脱してしまうところにある。急進的暴力に訴えた者たちはコミュニティからの支持を失い孤立して破滅的な行為に及ぶ。また、希望を失い絶望した者は自暴自棄になりドラッグやアルコールに依存したり犯罪に走って社会からドロップアウトしていく。もともと革命的願望を持っていた者たちがコミュニティに根ざした共通善から離脱し、反動的にドロップアウトしていく行為を破滅的な意味をこめて反動的自殺とよんでいる。これは一種のニヒリズムだろう。

 むろん、以上のニュートンの思想を今の日本社会の左派的な生き方にそのまま適用することはできない。家族よりも大きく国家よりも小さい規模の共同体に準拠し、その共同体の共通善のためにすべてを捧げる。自分は「無私」になり「私たち」のためだけに生きる。このような生き方を革命的自殺と呼ぶかどうかはべつとして、自己犠牲的な献身性が必要とされる生き方であることはまちがいない。また、注意が必要なのはそのような自己犠牲的な精神はカルト宗教にもつながるような危うさを持っている点だ。

 日本社会では戦後、急速な再近代化の過程で地域社会の共同体は衰退していった。その代替的な機能を果たしたのが「会社」という共同体である。また、精神的な代替的機能は新しい宗教が担っていった。おそらく、新左翼運動にコミットしていた団塊世代がサラリーマン化していった背景には、革命的自殺を決意するにたるコミュニティがもはや存在していなかったからなのだろう。そのかわり、反動的自殺に陥るのを防ぐことに貢献したのが会社共同体への自己犠牲的な献身性であり、「家族のために働く」という保守的な人生の意味だったと考えられる。

「私」を超える人生の意味と幸福

 いちばん容易な道はノンポリになってミーイズム化することだ。自己の実存と政治理念を切り離し、政治理念の追求を諦めて自分や家族の幸福のためだけに生きるのである。社会問題なんてどうでもいいし他者の不幸なんてのもどうでもいい。そんな面倒なことは考えず、ひたすら自己利益の最大化を追求しサバイブしていく。どうせ社会なんて変わらないのだから、こういう生き方が最も合理的であるし簡単でもある。

 だが、そのようなミーイズムは虚しい生き方ではないかとわたしは思っている。自分の人生の意味や幸福が自己の人生の内部ですべて完結可能であると考えている点がとても虚しく感じられるのである。誰の人生にも死は必ず訪れる。しかも、死はいつ訪れるかわからない。この二つの命題が真であるかぎり、自己の人生は必ず挫折する運命にある。したがって、挫折がたんなる個人的挫折にしかならないミーイズム的人生は虚しい。

 わたしの人生は「自己の人生を超える意味」につながらないと幸福にはならないのではないか──。ある程度の年月を生き、人生の短さを悟ったとき、残存する自己の人生を自分以外の他者のための幸福に使用したいと思うようになった。ここには、もはや自己の幸福を追求したところでたかが知れているという諦めがある。わたしの人生にこれから訪れるかもしれない幸福の程度は、これまでの人生の内実によってある程度の予想がつくからだ。だったら、残りの人生を自己の幸福追求に費やすよりも他者の幸福のために生きたほうがいい。そのほうが虚しい自己の人生から解放されるし、自分の人生を捨て石にして自己犠牲的に次の世代への媒介者として生きたほうが人生の意味を感じられると思うのである。

 ただし、自己犠牲的な献身性は他者に簡単に利用されやすい。今のところ注意すべきだと思っているのはナショナリズムや宗教に利用されてしまうことである。これには歴史的教訓がたくさんある。革命的自殺と「神風特攻隊」の精神は紙一重である。また、宗教に献金して自己破産してしまうのも同じような精神が関係しているし、リストカットやODを繰り返していたところから一転して、ホストやメン地下への「推し活」にすべてを捧げる「ぴえん系」も同じような精神の持ち主なのではないだろうか。もう自分の人生なんてどうでもいいという自己破滅的なメンタリティを自己犠牲的な献身性にシフトすることによって生きる意味を見いだす心理は危険でもある。

「安全な自己犠牲的献身性」はあるか

 ミーイズムに閉じこもって即物的に自己の幸福のみを追求する人生もわるくはない。それでも虚しく感じないのであれば…。しかも、このような生き方のほうが社会的にも「安全」かもしれない。へたに自己犠牲の精神が流行してしまったら戦中のように全体主義になってしまうかもしれないからだ。こちらのほうが社会にとっては危険である。だから、すべての人間が自己犠牲的に生きる必要はないと思う。

 そう考えると、「家族」や「会社」に貢献する生き方はうまくできていると痛感する。右派的人生のバックボーンとなる「結婚・家族形成・家族のために働く」という「家族貢献」物語は、宗教以外で人生の意味を与えてくれる最もうまく成功した生き方モデルになっている。もちろん、左派であってもそのような家族貢献モデルに与ることはできる。もし、左派を「リベラル」と「左翼」に厳密に二分するとすれば、家族貢献モデルを採用している左派を「リベラル」、家族貢献モデルを採用しない左派を「左翼」だとわたしは捉えている。また、家族貢献モデルを支持しながらそれに与れずにルサンチマンをいだいているのが一部の過激な「ネトウヨ」や「インセル」だろう。

 先進国とよばれた国々では現在、政治的な右傾化がすすんでいる。そのような国では世俗化と宗教の衰退、貧富の格差と孤立化、承認不足による自尊感情の低下などが蔓延している。結果、人生の意味に飢えたひとたちはますます「家族」や「ナショナリズム」の価値観に糾合されるようになった。しかし、今では家族貢献モデルから人生の意味を感じられるひとたちは一部の恵まれた階級に限られている。

 革命的自殺を企図できるほどの連帯可能なコミュニティはいまや存在しない。「家族」をつくることもできない。自分のためだけに生きるのは虚しい。だが、反動的に「推し活」をしたり宗教に依存したりすると自滅的な反動的自殺となってしまう可能性が高い。『容疑者Xの献身』の主人公は、自己の残りの人生に絶望し、自分の人生を身代わりにして他者貢献的に生きる道を選択した。このような自己犠牲的献身性は、反動的自殺や他者危害的ではない「安全な自己犠牲」になりうるのだろうか。

 多かれ少なかれ人びとは自己犠牲的に生きざるをえないし、そういう生き方に生きがいや使命感を感じているひとも多いだろう。人生の意味は自己の人生の内部をいくら探しても見つからない。個体としての人間に死が必ず訪れるかぎり、個人の人生はどのみち虚しい。「個人の人生を超えた何か」に繋がらないと、人生の意味の文脈が形成されないのである。

 自己犠牲的な生き方は危険である。自己犠牲の契機が自己破滅願望から生まれることもありうるからだ。それでもこれからは、安全な自己犠牲的献身性を探りつつ、何も変わらない、あるいは今以上に悪くなるかもしれない未来社会の変革への希望をあきらめず、自己犠牲的に次の世代への媒介者として生きる道を考えていきたい。