字も農

2022.3.1 字も農

庭文庫にて、100円コーナーに目を奪われた。
100円でいいんですか?と思うほどに、私の好みのタイプの本ばかりが並んでいたのだから。
今朝はその中の1冊、字源物語を開いた。
 
普段使っている言葉の成り立ちは興味深い。象形文字というものは、元になった様子がわかるからなおさらだ。

人の営みの、元。

そしてそこには、やはり食べるということが出てくる。
それは、農。

まずは豆という字について。

味噌作りに勤しんでいたために、また、節分を過ぎて間もないこともあり、豆という字はビーンズの豆であると思っていたが、実はそうではなかったから驚いた。

こちらもまた、象形文字。

“この形は蓋のついた長い足のある食物を盛る器であることがわかるであろう。豆には異音体のとうがあり、これは豆に肉と手がついた形で、肉を盛るたかつきのことであり、豆は祭器である。 〜中略〜 

なお豆を「まめ」の意に用いるのは後世(後漢以降か)のことで、これは音を仮りた仮借の用い方で、「まめ」の原字は荳・荅であり、まめは必ずさやの中に出来るから、草かんむりに合わさる意の合をつけた荅が「まめ」の原字と考えられる。”

この豆(たかつき)に山盛りに稲束を盛った形の字が豊である。この字は豆と山と音符の(ホウ)とから成り、 は峰や鋒(ほこさき)の字にも含まれている形で、先のとがった穀物の穂先を意味している。豊はたかつきに山のように穀物の穂を盛り上げる意から、ゆたか、豊作の意味に用いられる。”
(字源物語より引用)

豊かな暮らし。
豊かな時間。

私たちはたくさん、「豊か」という表現を使うが、遡ると、豊かという意味は、食べ物がたくさんある、ということなのだった。

つまり、逆説的にいえば、食べ物が豊かでなはい中では、豊か、という表現は適切ではないのだろう。
物に溢れた豊かであっても、食べ物がなければ、豊かとは言えるのか。

今は当たり前のように朝昼晩、3食食べることができているが、このままのうのうと生きていて、それが続くのだろうか。私は最近、少しの危機感とともに生きている。私の周りは、自給というワードを口にする人が多い。
 
最近新聞では、物価の高騰、という文字が目に付く。
特に小麦。これは輸入の小麦の話。


「相次ぐ小麦食品値上げ 保護主義と気候変動が翻弄」 という見出しの「日経新聞」2/12から。

図を見ると、国内生産82万トン、米国・カナダ・豪州などからの輸入は488万トン。そのうち10万トンが味噌・醤油などに加工され、560万トンがパン・麺メーカー、または粉として、私たち消費者の元へ届いている。

この数字を見ても明らかだろう。今の私たちの小麦文化は、輸入ありきで成り立っているのだ。

しかし、日本は人口が減っているものの、世界全体で見ると人口は増えている。そして、小麦需要も伸び続けている。

いつまでも、他国から小麦を買うことはできるのだろうか。
例え物価が上がったとて、お金さえあれば輸入できるのだろうか。

私は、ノーだと思う。

“(物価上昇の)理由の一つは各国の保護主義と地政学リスクだ。小麦を輸出する余力がある国のうち、最大のロシアは輸出規制を強めている。 〜中略〜 ロシアとウクライナは合計で世界輸出の約3割を占める。緊張の高まりで物流に支障が出れば、供給が落ち込むとの思惑が市場で買いを招いている。ウクライナは2021~22年度産の小麦の輸出数量に上限を設ける方針だ”


お金が欲しい、だから売る。という構造が基本であるかもしれないが、売らない売れないと言われたらどうしようもない。
これは戦後の食糧難の時代、高い着物を持って、農家へお米を分けてもらいに行った、というのと同じだ。お金は食べられない。
 
“米農務省によると、生産が需要に追いつかず21~22年度の世界の在庫量は3年ぶりの低水準となる。くわえて、世界中から食物を買い集める中国は20~21年度から小麦輸入量を増やし、日本を上回る世界有数の輸出国となった。日本の輸入元でもある米国、カナダ、オーストラリアからの調達を増やしている。”

そして2/28日付けでは、
“ロシアが高い生産シェアを持つパラジウム、小麦などの国産商品相場に強い上昇圧力がかかっている。~中略~穀物も小麦の先物価格が一時9%強上昇した。日米欧で国際決済網からロシアを除外する試みが強まり、ロシア産品の供給が途絶する可能性が意識されている。”とある。

取った取られた、値段が上がる下がる。
翻弄されてばかりではどう考えても疲れてしまう。


しかしもっと俯瞰して物事を見てみよう。寄りかかっているからそうなるのだ。上ではなく、地面を見てみよう。
すると、もう一つの選択肢が出てくるのではないか。

育てる、の選択肢。

自国で食べ物を作ることを疎かにしているままでは、他国への依存から抜け出すことはできない。翻弄され続けることになってしまう。

さて、そんな状況の中でも、
私たち日本人は、「豊か」だよね、と言えるのだろか。


そしてもう一つ、吉凶という字について。
これもまた、農と関わりの深い漢字だったのだ。

そう言われてぴんとくる方は、信心深い人かもしれない。
私は筒粥神事を思い出した。諏訪大社下社春宮の行事であるが、粥の中にヨシを入れて一緒に一晩中煮込み、ヨシを小刀で割り、粥の入り具合や出来具合でその年の世相と農作物の豊凶を占うというものだ。
ちなみに今年は三分六厘。

“農作物43品目の出来は、「上」「中」が各18品目、「下」が7品目となった。諏訪大社は、野菜や果物はおおむね豊作とし、稲は野菜や果物には劣るが注意をすればそこそこ実りが得られると説明した。”
(長野日報より引用)

吉凶と聞くとおみくじの言葉のような気がしてしまうが、
占いとは、本来は個人のことというよりも、豊作を願うという意味が強かったのだろう。

“吉とは、口の中に食べ物を満たして食う(喫)ということで、そこから十分に食べられるだけの穀物の実ことに用い、豊作を吉としたものといえよう。これに対して凶は、飯器の中が空であることを示す字であり、「キョウ」の音の持つ意味は「空(むなしい)」の意と考えられ、不作をいう。吉凶とは本来は豊作と不作をいう言葉で、そこから広く、さいわいとわざわいをいい、さらには意味を限定すると婚礼と葬礼の意味ともなるが、これらの字は農業を基本とする国に生まれた字であることが字の成り立ちから見ても分かるのである。”
(「字源辞典」より引用)

食べ物を確保することが、いかに尊いか。
食べ物があってこそ、人々の平和が保たれるというものだろう。

食がない、つまり、生命が維持できない危機の中では、それを求めて争いが起こるのは自然の摂理である。

はるかぶりだな、まめだっけ?

豆とは、伊那の方言で元気という意味でもあると教えてもらった。
その豆の字原は、食物を盛る器。

その食物を盛る器の上がすかすかでは、元気がないも同然だ。
長い目で見た時に、今の政策が吉と出るか凶と出るか。
その前に、自分たちでできることはなんだろう。今一度考えてみよう。


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