在宅福祉のこと
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松島貞治は、父である。
6期24年村長を務めた。
村長を辞して5年目、ようやく父と福祉の話をした。
「前提を見直す」
病院で働いていた時、終末期の人にたくさん立ち会った。
思うのは、
家族の想いと本人の想いは、違うんだってこと。
最期を迎える時に、認知機能が保たれている人が
少ないってこと。
ただ、わからないから、どこで死んでも同じかって、
それは違うんじゃないかと思う。
「どう死ぬか」は結局、「どう生きたか」
ってことだと思う。
ひとり孤独な死を迎える人は、ひとり孤独な生き方を。
家族に囲まれる人は、温かな家庭を。
遠方から友人が駆けつけるひとは、友人を大切に。
そういうことなんだと、
たくさん見て、思った。
だから、終末期の問題は、今、皆がどう生きるかに繋がっていると思う。
それは、私もだと思う。
今、人は、どこで、どう最期をむかえたいのだろうか?
どういう最期をむかえたいのだろうか?
透析も、胃ろうも、呼吸器も、
泰阜村で最期を迎える人たちには、
必要ないだろうな。
それは、元気な時から、医師と話をしてきたからだ。
終末期は、キュアではなくて、ケアであり、
腕の良しあしではなくて、
最期を迎える覚悟だ。
分かっていても、揺らぐのだ。
大切な家族の命がたえるかもしれないと思うと、
分かっていても、
「生きていてほしい」と
私は、思った。
だから、勉強が必要なんだと思う。
DIvがどこまで必要か。
呼吸はどうなるか。
尿は、便は、どうなるか。
皮膚はどうなるか。
目の色は、どうなるか。
知っておくだけで、覚悟はできるのだ。
私は、自宅だろうが病院だろうが、
キレイな仏になりたいと思う。
だから、点滴はいれないでほしい。
でも、もっと生きたい人も、いるんだよな。
だから、効率とか、医療費とか、
そういうことで、語っちゃダメなんじゃないかと思う。
この問題は、
特養やホスピス、病院、在宅、
たくさんの仏様を見た上で、
語らないといけないような気がする。
胃ろう作っても、数カ月延命できるかどうか。。。
でも、その数カ月に、価値がある人もいたから。
で、きっと、その上で、泰阜村は、
どの立ち位置に立つんだってことなんだな。