川や水路に柵がない国の"自己責任"への考え方
こんにちは!今日は少し気温が低かったオランダ。
今日は新しい家具を買うためにIKEAヘ。その前にはDelftにあるラーメン屋さんへ寄ってみました。日本風のラーメン、美味しかったー!!
こちらでラーメンを食べようと思えば、€12は当たり前。€16や€18なんてところもあります。オランダではラーメンは高級食です…
久々のカーシェアに乗って気づいた「オランダにないもの」
さて、オランダへ来て車を手放した私たち。遠出したい時や荷物を運ぶ必要があるときはシェアカーを利用しています。一見、高そうに感じますが、私たちが車に乗る頻度から考えると、税金やガソリン代のことを思えばシェアカーはお得です。
久々に車に乗ると、改めて見えてきた景色がありました。
それは、オランダの街に「ないもの(もしくは圧倒的に少ないもの)」です。
それは何かというと、
です。
川や運河だらけのオランダ
私が住んでいるDen Haagにはあまり川という川や運河が少ないのですが、Delftを含め他の町に行くとその数に驚かされます。「あぁ、オランダって(本来)こんな感じの街並みなんだ!」と気付かされるのです。
しかし一方でその景色が綺麗に見えるのは、水の近くに転落防止用の柵がないからかもしれません。時に、水路を挟んで向こう側にのどかな田園風景が見え、そこには羊やら牛たちがいるわけですが、そこを隔てているのは川や水路だけで、柵はありません。
踏切と柵のない線路を走るトラム
また、オランダではトラムやバスが発達していますが、トラムの線路にはほとんど踏切というものが設置されていません。正直、見たことがないレベルです。
私が住んでいる家の目の前にもトラムの線路があって、そこは自動車やバイク、自転車も走行できる道路ですが「譲り合い」で何とかなっています。
トラムは「(できるだけ)時間通りに走るもの」とされているので、多くの人たちはトラムに道を譲ります。一方で、トラムの運転士もまた人々に道を譲っている状況をよく目にします。
何ならトラムの線路に立ち入って犬の散歩をする人も
トラムはアスファルトの上だけでなく、芝生や緑の上も走ります。それが許されているのかはわかりませんが、犬の散歩をしている人は、トラムの線路に立ち入り、そこで犬に糞をさせている様子もよく目にします。もちろんトラムが近づいてきたら、速やかにその場を離れます。
アスファルトのところに糞をさせるよりは、芝生や緑のところに糞をさせた方が「楽」であることは理解できます。また、それが「自然にかえる」という意味でも有用なのかもしれません…笑
ただ、うちはよく使う反対側のホームに行くために線路を横切るので、その時に何度かそれを踏んだことがあます。笑
柵は設置しないので、泳げるようになれ
少し話はずれましたが、以前、オランダの水泳教室についての記事を書きました。
「命を守ること」に重点を置いたこの国の「水泳」は、水路近くに柵を設置しないことと関係しているかもしれません。というか、そうとしか思えません。笑
「柵は設置しません。…ですので、泳げるようになってください」
「ええー!?」と思ってしまいそうですが、とても理にかなっているというか、そこに「オランダの考え方らしさ」を感じるのは私だけでしょうか。
「柵があるだの、ないだの」の責任問題
これにはそれぞれの国の文化や考え方が大きく影響しているように見えますが、日本では事故が起きた時「管理責任」が大きく問われます。
例えば、私が実際に聞いた小学校の話では、ある生徒が教室にあった石を別の生徒に投げて怪我をさせた時、「なぜ、教室に石があるのか」という議論になったそうです…
「教室に石が落ちていたことを担任は知っていたのか?」
なんて議論になったそうで、私は頭を抱えてしまいました。
(ちがうちがう、そうじゃ、そうじゃな〜い〜。と脳内で歌いました)
もちろん、これは「ある学校の、ある案件」の話で、日本の小学校全ての話ではありません。しかし、日本の報道を見ていると、(特に)子どもが怪我をしたり命を失った時「安全管理」や「責任問題」が浮上することが多く、「自治体は対策をとっていたのか」とか「学校はその危険性に気がついていたのか」など、イベントを主催する側や学校などを萎縮させてしまうようなことが書かれていることもあります。もはや「何もしない方が(批判されなくて)いい」ぐらいの感覚を抱いてしまう人もいるのではないでしょうか。
「誰かのせいにする」を分け合う
一方でこちらで生活していると「こんなこと日本では100%アウトだな」と思うような教育活動や一般社会の慣習みたいなものがたーーーくさんあります。特に教育活動に関しては、元教員としては見ていてひやひやすることも多いです…笑
でも、それで良いのだと思えるようになってきました。何かが起きた時、「誰かのせいにする」ということが加速し過ぎたり、責任の所在を明らかにし過ぎる社会では、皆が萎縮してしまいます。もちろん事故はあってはならないし、人が命を落とすなどもっての他ですが、どれだけ気をつけていても事故は起こってしまうこともあるし、悲しい事件が起きてしまうこともあります。ここは"learn by doing"を許容する国。完璧を目指して物怖じしてしまうよりも、「まずやってみようよ」を時に優先する人々の国なのです。
川や水路に柵がないことで、私はこの国でその危険性を娘に伝えて育ててきました。そして、その中で、自分の身を守るために必要なのは「柵の存在」ではなく、「身の守り方を知っておくこと」なのだと理解しました。
「誰かのせいにすること」を分け合うことは、必ずしもいつもうまくいかず、揉め事も起こりやすいと思います。しかし、それを「ルール固め」にすることの危険性、つまり「誰かのせいにすることで、自分の頭で考えなくなる」ことを思えば、ある程度の揉め事も「あってよし」なのではないかというバランスが見えてくるような気がしています。