「ニュースは見ないから」と、大学生
こんにちは!皆さんはニュースをよく見ますか?先日、フードバンクでいつも通りボランティアをしていた時、他のスタッフ2名(40代半ば)がニュースで見た内容の話をしていました。
「あのニュース見た?」と彼女たちが聞くと、
「私はニュースを見ないようにしているんです」とその学生は答えました。
「ニュースを見ないようにしている?」と思った私ですが、実は私自身も特定のネットニュースからは距離をとるようにしています。
今回はその時に彼女から聞いた話についてまとめました。
「新聞を読みなさい」と言っていた大人たち
「社会のことを知らなさすぎる、もっと新聞を読みなさい」
大学生だった頃、大学の先生がそう言っているのをよく耳にしました。「君たちは社会に関心がなさすぎる」と。当時、私にはそれはお説教のように聞こえました。関心がない「私たち」に問題があるかのように聞こえました。
そういった人たちの中には「新聞」というものを「社会を知る」というただの道具として捉えている人たちもいて、彼らは新聞を読んで「その情報を鵜呑みにせよ」と言っている訳ではなさそうでした。
一方で「新聞を読めば社会の正解がわかる」というような口調で「新聞を読みなさい」と言っている人たちもいたような気がします。
いずれにせよ、インターネットが今ほど普及していなかった当時は、まだまだ「新聞を読む」という行為がそれなりの価値を築いていたように思います。それはきっと、「新聞」というものが「オンラインの情報ほど脆く、信憑性を欠いたものではない」という意味が含まれていたのかもしれません。
「ニュースは見ない」その真意は?
その大学生は今、大学で教育を学び、教育実習も終わって小学校の先生になれる状態です。でも、「もっとアカデミックに学びたい」と、修士への進学を検討中。とても感じの良い、プライベートでも関わりたいなと思うような素敵な学生です。
「何でニュースを見ないの?」そう聞いた私に彼女は言いました。
「なるほどね、うん、わかる気がするよ」と言う私に彼女は続けます。
なるほど、面白い視点だなと思いました。でも、ある意味事実だと思います。
ジョージ・ガーブナーが"mean world syndrome"と名付けた発見は、「マスメディアの暴力的なコンテンツに繰り返し晒されたせいで、世界を実際より危険だと信じ込んでしまうこと」でした。それによって引き起こされる症状は「冷笑的な考え方、人間不信、悲観的な見方」に及びます。
善良な市民として生きるために必要な「ニュース」は、実は負の意味合いを含んでいる可能性も大いにあると彼女は言うのです。
幸せは「ローカル」から始まる
私は仕事上SNSを経由して連絡を取ることが多いですが、確かに彼女の言う通り、ニュースと同様SNS上には私が望むような「幸せ」はありません。
それよりも、今日、仕事の合間に義則と出かけた30分の散歩の方がよっぽど幸せを感じました。笑 広い池の中を自由に泳ぐ鯉たちの姿を見て、心の余白に流れていく優しい風を感じました。
彼女が言うように、幸せはローカルから始まる…これは確かにそうかもしれません。でもそれは「人との関わりの中で自分らしさを発揮できたら」に限られているような気がします。
極端な話、人と接する時間が日常の中で長かったとしても、それが気を使わないといけない場合であれば「幸せ」を感じることは難しいように思うのです。つまり「自分らしくいられない」ことへのフラストレーションが高まるということです。
だからこそ、スマホやスクリーンの中に時間を費やすということはあるかもしれません。外世界で溜め込んだストレスを、スクリーンの中で消化するように時間を過ごす人も一定数いるのではないでしょうか。
目の前を善く生きることが「つながる」
彼女は「目の前の善」がつながると主張します。ネガティブなことが簡単に広がりやすいからこそ、目の前の善を大切にすることにフォーカスした方が良いと。
「人生ってそんなに悪くない」「人ってあたたかい」そういった気持ちが1日の中で何度も溢れる毎日が実は、人から人へつながって、遠い海の向こうの戦争を防ぐことになることもあるんじゃないか。彼女はそんなことを語っていました。そして、私も一部それに同意します。
それは何だか現実的ではない、夢物語や綺麗事のように聞こえますが、物事を複雑に考えたい人ほど、そこに懐疑心を抱きたいのかもしれません。実は、人間の毎日はとてもシンプルなことの積み重ねなんじゃないか。そんなことを彼女の発言から考えさせられたのでした。
皆さんは今日、心が温かくなる瞬間が何回ありましたか?
誰かの心にその温かさを灯すような行為をしましたか?
「人生はいいもんだ」「人っていいもんだ」
その気持ちを抱く邪魔をしているのがネット上のソースであるならば、確かにちょっと距離を置くのも悪くないと思ったのでした。