利便性よりも不便性がもたらす愛おしい瞬間
娘と義則を京都に残してやってきた3泊4日の東京滞在。この猛暑の中、東京を動き回って、毎日汗だく。笑 これから京都に戻ります!
日本では「ヨーロッパは猛暑!」なんて報道されているようですが、私たちが暮らすオランダは日中でも18度とかって。笑 え、夏どこいった?爆
複雑に入り組んだ大都会で生き残れない
さて、東京に着いた初日、すでにちょっとだけ帰りたくなりました。笑
東京の悪口とかそういうことではなく、私はここでは生き残れる気がしない。この大都会に暮らせば慣れると言われればそうなんだろうけれど、物質的な豊かさに溢れていて、人間としての自分の心を満たしてくれるものが少ないと感じたのです。個人的には京都の繁華街も、もう疲れます。苦笑
先週末に祇園祭へと出かけましたが、娘がりんご飴を買って、念願のかき氷を手に入れたら、そそくさと帰りました。笑
都内で公共交通機関を利用して移動するためには、上に上がったり下に下がったり。右左に動けば動くほど、人とぶつかる。方向がわかっていない私は何だか鮭になった気分。笑
「そんなのないよ」って言われたらそこまでなんですが、私には東京で生き残るためには作法みたいなものが必要な気がしました。そして、私はそれを知らないから、いちいち躓いてダメージを喰らいます…日本人なのにな、日本語読めるのにな…って感じでした。
今回は学校を視察、訪問したりして基本的に「見たいものを見る、会いたい人に会う」ということを続けてきたのですが、人に会えたらすんごく安心する。「会えたー!」ってなる。それくらい、移動のダンジョン感すごいです。
コミュニケーションに飢えていく自分
オランダ出身の知人が報道関係の仕事で東京に住んでいます。日本で大学院を卒業して、日本文化にもかなり精通している人です。そんな彼が先日記事を書いていたのですが、その一説に「日本は自分にとって決してホームカントリーにはならない」というのがありました。その続きに、
「日常の中で偶発的に起こる些細な会話を欲している自分を自覚している。カフェやレストランで店員に日本語で小さなジョークを飛ばすと、こちらでは驚かれてしまう。そして何より欲しているのは、家族や友人との直接的なコミュニケーションだ」
と書いていたのです。そして東京滞在を通して、今更になって彼の言うことがじんわりわかってきました。
1人で街をブラブラしていたら、人と話すことがなさすぎで寂しいのです。あと、周囲にそういう会話が発生しにくいことも寂しいと感じました。スタバでコーヒー待ちをしている時「混んでいますね」なんて隣の人に話しかけることは一般的ではないし、行き先へ向かう切符の値段がわからなくて何人かの人に聞いたら、だいたい急いでいる人でちょっと申し訳なくなりました。
コンビニで水を買って「暑いですね〜」と声をかけたら、話しかけられる想定など全くしていなかったのか、反応に困られてしまいました。
バスの運転手さんに多くがお礼を言わなかった
バスに乗る時、私はだいたい「こんにちは」と声をかけます。ちゃんと運転手さんの目を見て、挨拶をするのはオランダに移住してからのことではありません。運転手というのはだいたい、乗客の降車時にバックミラーでその様子を見ています。その時にそのミラーを見ながら「ありがとうございました」と言うようにしています。
滞在中、東京で6回〜7回ほどバスに乗りましたが、運転手さんにお礼を言っていたのは、たった1人。小学生低学年の男の子だけでした。そこで強烈に親近感を感じました。笑
それだけではなくて、買い物をした時も、それがカフェでもコンビニでも「こんにちは」と「ありがとう」と言う人が少ないなと感じます。私は消費者ですが、基本的に消費というのは支払いとの"等価交換"です。だから、お金を支払っている方が偉いということはないと考えています。
サービスを提供する側が気持ちよく仕事ができるかどうかは、とても些細なやりとりに起因すると思います。その一言がリスペクトを表現するのだと思うのです。
おばあちゃんを見守る余裕
バスから降車するおばあちゃんがゆっくりと歩いていたので、私は車内で一歩下がって待っていました。するとおばあちゃんが「ごめんねぇ、ありがとう」と言いました。「問題ないですよ、ゆっくりやってくださいね」と言うと、おばあちゃんはニッコリとした後に降りていきました。
そしてバスを降りた時「間違ったバスに乗ってしまってねぇ」と言ったのです。おぉ、それは大変だ。こんな猛暑の中、おばあちゃん大丈夫か!!!
「戻るバスはどれかわかりますか?」と聞くと、緩やかに別のバス停を指差したおばあちゃん。正直、次の約束の時間がおしていたのですが、それでもおばあちゃんを放置する気にはなれず。一緒にバス停まで歩きました。
時間的に私にも余裕があった訳ではありません。でも、こんなやり取りをすっとばしてしまわなければいけないほどゆとりのない生活って嫌だなと思いました。仮にこれが善行だと言われればそうかもしれませんが、この行為によって救われたのは逆に自分の心のように感じたのです。
利便性よりも小さな不便性を受け止める
きっと誰にだって人助けをした経験はあると思います。小さなことから大きなことまである中で、本当に満たされたのは自分の心だと感じたことはないでしょうか?
超がつくほどのスマートさが尖る社会では、物事の多くが滞りなくいくので、全体的にスピード感があって、無駄がないように見えます。だから、ほとんどの場合、人に頼る必要も、不必要なコミュニケーションをとる必要もないのかもしれません。
でもその代わりに、自分が小さく満たされたり、小さく貢献することで心が躍る機会も少ないと感じました。私にはそれがちょっと寂しかったのかもしれません。ちょっとした不便性から生まれる「人とのやり取り」が滞在中はとても愛おしく感じました。
3日間、訪れたい場所を訪れ、会いたい人に会った3泊4日。そういった意味で心は満たされたように感じます。でも、出来れば知人だけではなく、社会の中で小さく喜びを感じる瞬間がもう少し欲しかったと感じたのでした。
同時に、家族がいなくて寂しかったというのも、寂しさを加速させたのかもしれないなと感じています。
・・・そして今、新幹線で京都に向かっています!
家に帰って、家族と再会して抱きしめ合うのがとても楽しみです!誰かを抱きしめることで満たされるのは、私の方なのかな。なんて思っています。
よく見てみたら、前回の一時帰国でも同じようなことを感じていました。
もしご興味があればお読みください!