いじめを"傍観者"で終わらせないためのアクティビティ
こんにちは!
昨日、ショッキングなニュースが流れてきました。個人的にはあまりニュースを自分から閲覧することは控えています。が、今回は自分が現地校で行った内容ともオーバーラップしていたので、立ち止まって読むに至りました。
不登校29万人、いじめ68万件、ともに最多 文科省調査の全容判明
朝日新聞の無料記事の部分によると、
と報道されています。いじめの数がすごい。しかも、重大事態(重大の定義が気になるところですが)は923件…これはものすごい数です。
「いじめ防止週間」でちょっとだけ授業をしてきました
先週、完全バイリンガル教育を行う現地校(厳密には私が勤務する学校の分校)で、パートナー教員であるMarian(仮名)の小6の授業を2日続けて見学させてもらいました。その時はちょうど、「いじめ週間」というのもあって、いじめを題材にした授業が行われるところでした。
ちなみに、アメリカ出身のMarianはこの小学校に勤めて8年。完全バイリンガルのこの小学校では週に2日「完全英語の日」があり、そこで彼女は登校から下校まで、全ての授業(英語や算数など)を教えています。
また、今年Marianは"SEL(Social Emotional Learning)"の主担となり、学校全体でSELをどのように行うかということに役割があります。SELとは、日本語に訳すと「社会性と情動の学び」と訳すことができ、端的に言うと「非認知能力」とも言えます。
子どもたちの対人能力や共感力、自己理解や感情制御力を育てるための学習や体験を行うプログラムのことを指し、問題解決能力などを代表とする「非認知能力」をはぐくむことができるといわれる教育のことです。オランダの教育では、非認知能力も含め市民教育と言われる「多様な人々が同じ社会で生きていくために必要な能力」が、教育で再重要視されることが決まっています。
2日の最後「いじめ」に関する授業に入るとき、Marianが、
「菜央、授業やってみる?これ、教材だからやりたかったらやっていいよ!」
と言ってくれたので、彼女が手渡してくれた教材をもとに6年生に授業をさせてもらいました。
その教材を日本語訳したので紹介します
アメリカ産(であろう)その教材は、私にとっても興味深く、私も生徒と向き合って、自分自身が経験したいじめや、高校中退のこと、そしていじめが原因で学校に行けないことが自分の教えていた生徒にもあったことなどを話しました。
Marianが手渡してくれた教材を翻訳してみたので、興味がある方はご覧ください。私の日本語訳に違和感を感じるかもしれませんが…(翻訳は難しい…)オランダのある小学校の「いじめ週間」で使用された教材です!
「いじめは行為であって、その人そのものではない」
この教材には「なるほど!」と思わされる学びがたくさんありました。例えば、「いじめは行為であって、その人そのものではない」という言葉です。私たちは「行為=人」と思いがちですが、そうではないということ。いじめる側の人間が、「生まれた時から悪い人である」という考え方はやめましょう、ということです。誰にでも良い側面はあるのに、それが別のかたちで出てしまっているという考え方をしようと促しています。だからこそ、それは修正可能で、その修正を促すことが出来るのが周囲の人間でもあるのです。
「人を助ける時は、安全な状況かどうか確認してから」
この教材では「いじめを見たら絶対に助けること!」とは書かれていません。誰もが皆「ヒーローにならなければいけない!」と促すことは危険です。
「もし、今日の学校の帰り道に、ティーンエイジャーの高校生の集団が、誰かのことを殴ったり、蹴ったりしているのを見かけたらどうする?そこで、"いじめはやめろ!"って入っていける人はどれくらいいる?」
と聞いてみたところ、1人しか手を挙げませんでした。
私「そうしないのはどうして?」
生徒「自分だって危険な目に遭うかもしれないし、自分はまだ小学生で体格も違うかもしれない。状況を判断することは大切だと思う」
私「じゃあ、その時はどういう行動をすれば良いと思う?」
生徒「大人に助けを求める。もし電話を持っていたら、警察に電話をかける。一人で危険を冒してまで挑まなくていいケースもあると思う」
という冷静な回答が返ってきました。
そうすると別の生徒が言いました。
生徒「でも、それと同じ状況が…例えばこの学校だったら、私はそこに行って"やめなよ"って言うと思う。どういう人たちがいじめていて、自分がその人たちとどういう関係かによって、行動できるかどうかが決まると思う」
すると、他の生徒も「そう思う」と口にしました。
生徒「少なくとも、この学校で起きたことならちゃんと止めに入るクラスメイトが多いと思う」
そんな意見がほとんどでした。とても冷静な分析です。
手段を選べば、自分たちに出来ることはあると習う
このアクティビティでは決して「傍観者になること」を容認しません。まず、いじめが起きないような行動を日頃から心がけることが求められますが、教材の中では何度か「誰でもいじめの当事者になれるし、誰でもいじめられる可能性がある、いじめはどこでも起こり得る」ということが何度か言及されます。つまり、いくら起きないようにしていても、それぞれの人生を送る中で、いじめの当事者にも被害者にもなり得てしまうからこそ「いじめ」は怖いものなのだという考え方をするということです。
そして「傍観者になることは容認しない。何故なら、私たちにはいじめに対して取れる行動があるからだ」ということを教えます。
いじめる側にも、いじめられた側にも手を差し伸べること
いじめは決して許される行為ではないけれど、誰でもいじめる側にもなってしまうし、いじめられる側にもなってしまう。このアクティビティでは最終的に「どちらにも手は差し伸べられるべきだ」と伝えます。
「いじめは絶対に許されないこと」と「いじめる人にも手を差し伸べること」は矛盾しているようにも感じられますが、これが「どんな人もミスを犯してしまうことはある」という考え方で、「どんな人にもセカンドチャンスを与えよう」ということなのだと思います。
むしろ、いじめてしまう側も「困っている」という風に捉えて、その人に必要な「助け」を差し伸べることが重要だというところに落とし込みます。こうやって、全てが「善悪」で割り切れるものではないということを学びます。
自分たちで取り組む自治
Marianの提案で、この日の昼休みはこのクラスの2名が校庭に立ち"peace patrol"という役割で、問題解決を手助けする係を担いました。ちなみに、これを行うにあたって、生徒たちは人と人との間に起きる「コンフリクト(もめごと)」をどのように解決するかを練習しました。※それについてはまた記事にしたいと思います
そして、休み時間に「解決係」として校庭を見回り、練習した手順に沿って「(まずは)大人の手を借りずに自分たちでもめごとを解決できること」を練習していきます。
こうやって、「いじめ」や「自分たちで問題解決を行えること」はリンクしていて、子どもたちが「自分たちで自分たちの学校を居心地の良い学校として維持するための練習」を繰り返していくのです。
「いじめ」はケースによっては大人の介入が必要なこともありますが、生徒自身がまずは自分自身で対処できること。そして、そのためには学校全体で「いじめ」に対しての共通認識を持つことが重要だと思います。
私にとってこの日の学びはとても意義深く、オランダのある学校でこのようにしていじめの問題を学んだり、意見交換をして学びを深めていくのだということがわかった日でした。
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