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情報発信する側のモラルと誠実性

こんにちは!皆さんはご自身の発言が「他者に利用された」と感じたことはありますか?いわゆる「人の褌で相撲をとる」というか、「自分の褌で相撲を取られた」?笑 という経験です。

先日、自分がVoicyとnoteで発信したことが(ほぼ)同じ内容として(発信から数時間後に)「その方の言葉として」発信されているのを見て、ちょっと複雑な気分になりました…というか「それが私の発言の要約ではないとしたら、どんな経験や体験に裏打ちされてその言葉が出てくるんですか?」と不思議に思った感じでした。

もちろん、相手が「そんなつもりはない」と言えばそうなのでしょう。ただ「そう感じる」という側がいるのであれば、それもある意味事実です。別にどちらが正しいとか、正しくないとか白黒の問題ではなく、「どう感じたか」の問題なので、こたえがないことです。

それをIB(国際バカロレア)のチューターとして日本語Aを指導している義則に話してみたところ、「うん〜、IBでは他の人から情報を得た時は、どこからその情報を得たのかを必ず明記することを習うけど、日本では習わないことが多いからかな〜」と言われ。"学問的誠実性"をすっ飛ばした国で育つと、そういった感覚が身につかないこともあるんだな、と学びになりました。

もちろん自分の発信は商標登録しているものではないので、(私の考えや発言を)誰が引用しても良いのは確かなのですが、自分の知名度向上や生きていく術を必死に探している人の中には「手段を選ばないタイプ」が存在します。例えば「乗っ取りアカウント」なんかもそうでしょう。モラルが問われるというか何というか…誠実性の話かもしれません。

そうやってSNSを活用して、いいねとフォロワーの数を増やし、アルゴリズムに乗っかるのが現代のやり方なんだな〜と思いならが、オランダの歴史家のルトガー・ブレグマンが「これからは利己主義な人間が増えていく」と書いていたことを思い出したと同時に、自分はそういったことがないように気をつけよう、と改めて思いました。私は可能な限り誠実に生きたい。笑

SNSの情報に溺れないために

SNS上でたくさんの情報に触れていると、いざ自分が発信者になった時にその考えが「純粋に自分の脳みそから出てきたもの」なのか「誰かの発言や考えに自分の脳が憑依しただけのもの」なのか区別がつかなくなることはありませんか?そういう感覚、ちょっと怖いなと思います。

私も各種SNSを利用していますが、意識しているのは「発信に徹すること」で、「必要以上にスクロールをしないこと」です。あえて意識的にSNSの情報に溺れないようにしなければ、なかなか自分が本当に真ん中に置きたいことが揺らぐような感覚に陥ります。

逆に、noteの記事を書く時は、
・実体験に基づいたもの
・一時情報を参考にしたもの

を意識していて、誰かのSNSの情報を転用して記事を書いたり、発言することは「二次情報の引用」になるのでしないようにしています。政府のサイトにアクセスするか、信憑性の高いソースにアクセスすることで、誤った情報を拡散しないようにも気をつけています。

例えば、「ユニセフのレポートで日本の子どもたちの身体的幸福度は1位」だとどこかに書かれていて、それについて記事を書くのであれば、どこかで見つけた情報を鵜呑みにせず、一次情報にリーチする。つまり、ユニセフのレポートを確認する。ということです。

オランダの教育に関する情報は基本的にオランダの政府サイトに書かれていますが、オランダ語で理解できるものはオランダ語で、難しいものは英語に翻訳して理解するようにしています。(オランダ語から言語距離の遠い)日本語にすると、解釈が変わることがあるので、できるだけ原語に近いかたちで理解するのが理想かもしれません。

素敵な考え、興味深い考察だと思ったら、"その人まるごと"引用する

例えば、私はnoteやVoicyにいらっしゃる「のもきょう」こと「野本響子」さんと仲良くさせてもらっているのですが、これまで彼女の記事に共感した時はその記事を自分の記事の中で引用させてもらってきました。

「彼女の記事のここに共感しました」という自分なりの感想を添えたり、この記事からヒントを得ました…など表現しながら、「オリジナルはこちらです」という感じで書くようにしています。

"sharing is caring"というのは、私が勤務する学校の校長がよく口にする言葉ですが、「良いものは共有する」という考え方が私はとても好きです。その時に、ちゃんと「自分に学びを与えてくれたもの」の引用先を表現することは、自分の発言に責任を持つことにもつながります。「どっかから得た情報」というような無責任な発言よりも「この方のここを拝借しています」と表現している人の方が誠実性が高いと感じます。

一方で、「自分の手柄にしたい」という気持ちが強い人は例え、ある特定の人から多くを学んでいると感じていても「共有すること」を拒みます。恐らくその人の中には「手柄を取られたくない」という思いや、「自分の方に注目のベクトルが向かなくなること」への恐怖心、または「自分のこれからの成長に対して不安がある」などの要因が隠されているのかもしれません。そういった中で「これは私の(オリジナルの)発言です」と(意識的にも、無意識的にも)表現することが多くなるのかもしれません。

プロフェッションに集中する

お気づきの通り、私は「教育」や「海外での生活」という広い範囲で記事を書くことが多いのですが、基本的に子育てについて書く時は「実体験」をもとにしていますし、子育てについては「エッセイ」要素が強いと思います。

それ以外のことに関しては自分がこれまで50校以上の学校を視察、フィールドワークをしてきた中で見えてきたこと(これも実体験に基づくものですが)を中心に書いていて、それが「実体験に基づいたプロフェッション」の支柱になっています。「視察=オランダの教育の全て」にはならないのは当然ですが、これまで何十人という教職員と対話する中で得たコンテンツは紛れも無い「実体験」に基づいたものであり、その実体験を裏付けるためにリサーチのが必要になることが多いのも事実で、その時は公式なデータにアクセスするようにしています。

また、「自分のプロフェッションを超えた範囲」に安易に踏み込むことも避けるようにしています。例えば、オランダは「サーキュラーエコノミー」が有名で、私もいくつか書籍を読みましたが、私にはそれに言及する実体験がない、もしくは専門性が低いという自覚があるので、知っているかのように記事を書くことはしません。「多少知っていることだとしてもプロフェッションを鑑みて発信しないこと」の判断は、他人に誤った情報を提供しないためにも大事な要素だと思っています。その考え方もまた情報に対する誠実性の1つです。

いろんなトピックに話題を広げ、投網漁のように発信する手段も"アリ"かもしれませんが、どうでしょうか…やっぱり私は(個人的に)信憑性のある情報を発信しているという自覚のある人から情報を手に入れたいなと思います。その人のプロフェッションをリスペクトするためにも。

あなたに情報を与えている人が提示する情報の信憑性にこだわった方がいい

こんなことを書くと、極端に「データ」に固執する人が出てくるのですが、そういった意味ではありません。笑 つまり「情報を発信する人」が持っている情報発信への誠実性を見極めた方が良いということです。

世の中の出来事は全て「データ」で説明できるほど、白黒はっきりしたものばかりではないと思います。ただ(私が書く記事も含めて)、その人が何をしていて、何に従事していて、何にプロフェッションを発揮し、情報に対してどれほどの誠実性があるかどうかを見極める必要はあると思います。

誰でも発信できる時代において、そして、どんどん情報が更新される時代において、情報の見極めができることは他者に誤った情報を与えないためにも大切だと思います。情報を発信する側が誠実性を意識するだけで、そして受け取る側に少しその意識を備えるだけで、私たちは「より質の高い情報」にリーチできるのかもしれません。


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