「それって本当にそうかな?」と人に言う力、受け入れる力
こんにちは!先日、オンラインでオランダの学校における保護者と学校との関係、そして子育てをしながら感じる保護者同士の関係について話をしました。その際に、意外と私たちは日本人同士の人間関係の中で、「これってこうなんじゃないか?」という余計な憶測の中で、確かめもせずに「きっとそうだ」と思い込んでいることが多いのではないか?と思いました。
これまで50校以上の学校を視察してきた私ですが、オランダの学校の先生たちに私の個人的な意見を伝えた時に「うーん、それって本当にそうなのかな?」と言われることはよくあります。
学校以外でも、例えばフードバンクの別のスタッフが何かを言った時、「うーん、それってそうかな〜」という回答をする人たちもいます。
私たち日本人は(ちょっと主語が大きすぎますね)、誰かが何かを言った時、そしてその真偽を疑った時、「それって本当にそうなんですかね?」ということをどちらかというと憚ります。その発言自体が「攻撃的」だと思いがちです。相手が言ったことに「それってそうかな?」と問いかけることは「相手の意見を否定する行為」だと思っているのかもしれません。
「PTA活動は面倒だと思っている保護者が多い」
今回のZOOMの場では、私が個人的な子育ての経験を通して、学校とのやりとりをどのようにしているか、保護者同士でどんな風に学校教育に協力しているかのお話しをしました。もちろんこれは個人的な経験なので、「オランダの全ての小学校でこうだ」と言うつもりはありません。
その中で「日本の保護者はPTA活動は面倒だと思っている人が多い」という意見がありました。そしてどうやら「そう、日本の保護者はPTA活動を面倒だと思っているみたいなんですよ」という人たちもそれ相当数いたようです。
一方で、私は思いました。「それって本当にそうなのかな?」と。もちろんアンケートをとった訳ではないです。さらに言えば、そういう報道はよく聞きます。でも、日本の一つひとつの学校で、本当に保護者の総意が「PTA活動は面倒だ」なのか?逆に、そう思い込んでいるからこそ、「面倒なもの」として自分自身がPTA活動を扱ってしまうこともあるんじゃないか?そんな風に思ったのです。
ツアーであるオランダ人が気づかせてくれたこと
以前のツアーで、とあるアクティビティをした時に、
「日本の人たちは教育を通して、なかなか自分の意見を表現することを学んでこなかった。内向きで、自分の意見を言うことができない国民性だ」
とおっしゃった参加者がいらっしゃいました。
それを聞いたオランダ出身の女性は「そうですか」と笑顔で聞いていました。そして、彼女はあるアクティビティを通して、参加者全員が自分の気持ちを表現したり、コメントをするという機会を設け、最後にこう言いました。
「日本人は内気で、なかなか意見を言うことができない…というのは一体誰かそう思っているのでしょうか?少なくともこのアクティビティを通して、皆さんは一人ひとり、ご自身の考えを表現したり、コメントしたりしていましたね!日本人はこうだ、私たちはこうだ、きっとこうにちがいないと決めつけているのは一体だれなのか、ということを考えてみてほしいと思いました。少なくとも、私は皆さんが"そうだ"とは思いませんでしたよ!」
と言ったのでした。これはとても意味のある示唆だと感じました。
私たちは「皆がそう思っている」ということを確かめもせずに「そうだ」と思い込むことで、自分ができる(かもしれない)アクションに、制限をかけてしまっていることがあるのです。
「本当にそうなのか?」批判的思考力
私たちはニュースを見た時、誰かの記事を読んだ時、私たちはそっくりそのまま事実を受け入れがちです。もちろん、世の中にある全てのニュースや報道がフェイクなんてこともないと思うので、ある程度の信憑性もあるでしょう。
ただ、それを見てその情報をそっくりそのまま信じてしまうことも危険です。私たちが「データ」というものに弱いのは、ある意味一問一答形式で学校教育を受けてきた影響もあると私は思います。
「データは正しいもの」とか「与えられる情報が嘘な訳がない」という前提に立つことから始めることは結構危険かもしれません。オランダの教室では、教材に書かれていることに対して「自分の意見」を表明する児童生徒もよく目にします。
「ここに書かれている、"子どもは甘いものが大好きだ"という表現は誤っていると思う。そうではない子どももいるし、少なくとも僕はそうではない」
とか、日本人からすると「屁理屈」に感じられるようなことも、子どもたちは「自分の意見」として表明することに臆していない場面にもよく出会します。そして教師もまた「事実の否定」ではなく「意見の表明」に対しては柔軟で、「あなたはそう思うのね」とか「私もその部分に関しては賛成意見だわ」とか、教師自身が個人としての意見を表明することを怠りません。
そういったやり取りを、長い学校教育活動の中で何度も何度も、何度も何度も…繰り返し目にしていると「本当にそうなのか?」と問うこと自体は悪いことではない。という意識が芽生えてきます。そして、そこに対して「私はこう思う」ということが否定されないこと、「そういう意見の人もいる」という学びは、限定的な視座から抜け出すことの重要性につながりやすくなります。
「決めつけ」や「思い込み」から脱するために
正直、私たちの身の回りにある事象や現象、状況を決めつけてしまった方が楽です。あらゆる可能性を探ったり、違った視点を考慮するのは、正直めんどくさいことかもしれません。
でも、それを脱すると「いろんな意見があること」はずっと楽しめるようになります。「人それぞれ違う」という前提に立つと、人の意見を聞き入れることが容易になる以上に、自分の意見を表明することも楽になるのです。誰も自分の意見を決めつけたり「そんな変な考え方する〜?」と思ってこない…そういった安心感があると「こんなこと言っても変に思われないかな?」と不安になる必要がありません。
そうするためには「自分が」そういった発言を積極的にしてく必要があるように思います。例えば子どもの、
「○○くん、男の子やのに、バービーで遊ぶのが好きなんやって〜!」
という発言に「隠された意図」を感じる時、
「そうなんや〜。それって何かあかんことなん?あなたはどう思ってるん?」
とあっけらかんと聞けること。これが子どもたちに「ハッ」とする機会を与えます。「女の子=バービー」と思っている思考に「それって本当にそうなんかな?」と考えるちょっとしたスパイスを与えることができるのです。
もちろん言い方は大切だし、相手の意見を否定する必要もありません。ただ、「自分はこう思う」ということをちゃんと表明するという行為を怠らないということなのです。
本当にそうか一つずつ確かめていこう
「先生たちは忙しくて、保護者からの提案に時間を割くのもめんどくさいと思っている(はず)」
「保護者の中には仕事が忙しくて、保護者主体の活動なんかに興味がない人が多い(はず)」
意外とそうではないけど「そうだ」と思い込むことでその先のアクションに移らないための理由を探している場合もあるかもしれません。
まずは思い込みを捨てること、そして「異なる意見」を楽しむこと。
私たちが未だにリーチしたことのないアイデアは、「異なること」を楽しんだ先にあり、それは「異なるもの」が混ざり合った先にしか見えない、新しい景色である場合も多いのかもしれません。
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