情熱を持って真実を語ることしか、人の魂には響かない
今朝、ヴィクトル、ユゴー原作の、レミゼラブルを、考えながら、ふっと、蘇ってきたこと。
レミゼラブルは、私の大好きな小説なのだが、特に、最初の部分がいつも、私の魂とともにある。
人が、愛と許しという、とてつもない大きな魂に出会った時、その人の人生を変容させるという、感動の場面。
盗人、ジャンバルジャンが、銀の燭台を、泊めていただいた、神父様のお宅から盗み、警官に
神父様の前に突き出された時、神父様は、
「彼は、盗んだのではありません。それは私が、彼に、持たせたものです。」という。
その、大きな愛と許しが、盗人、ジャンバルジャンを、市長になるまでに変容させたという、お話。
物語は、長編で、その後も、彼の中の、盗人である、悪の部分と、市長として、人のために生
きたいという、善の部分が、葛藤していく姿が、延々続いて行くのだが、私が、この
話を知ったのは、本ではなく、 教会の牧師先生のお説教から、だった。
私は、小学校の高学年、3、4年生の頃から、6年生まで毎週日曜学校に通っていた。
西宮の、夙川の辺り、香櫨園教会の、古河牧師先生は、とても、情熱的に、説教をされる方だった。
私は、本当に、感動して、毎週、夢中になって通ったのを覚えている。
毎週いただける、聖句のカードを、 ノートに貼って行くのがとても、楽しみだった。
その頃の私は、イエスキリストの存在すら、おとぎ話のようにしか聞こえず、
その実在性すら、疑っていたほどだった。
でも、イエスキリストが、フイクションか、ノンフイクションかは、私にとって全く問題では
なく、彼の説く話=聖書が、自分の人生に有効だったがゆえに、私は、学び続けた。
それはひとえに、古河牧師先生の、説教が、情熱的で、素晴らしかったから、に尽きると思う。
子供相手でも、彼のパッションは、手加減することなく、ダイレクトに伝わってきた。
人の中に永遠に残るのは、情熱を持った表現=真実の表現 の中にしかない。
魂に残ったのは、小学校時代の、牧師先生の説教。
そのあとは、高校時代に出会った音楽、ジャズ。
この二つの世界観を、辿りながら、私の人生は、今まで、進んできたな、と思う。
情熱を感じるものを、辿って行くことに、人生の間違いは決してないことを、人生を振り返っ
て、そう感じる。