![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/45676424/rectangle_large_type_2_cd75f9b130deda36a66b1be8dbb5e909.jpg?width=1200)
誰かのために
先日、夕刊の『116歳コロナから回復』という記事の中の一文に目が留まった。フランス人のリュシ・ランドンさんという世界2位のご高齢の女性が新型コロナウイルスに感染したが無事回復されたというニュース。(令和3年2月10日中日新聞夕刊)
ランドンさんは高齢者施設に入所中。1月に施設内で80人以上の集団感染が発生した際にPCR検査で陽性反応が出たため、隔離生活を続けたという。10人の死者が出たがランドンさんは無症状のままだった。
隔離生活終了後、報道陣からのインタビューで、「何も感じなかったし、良く眠れた。この年になると死ぬのも怖くはないけど、孤独がつらかった。」などとかくしゃくと返答。
そして、記事の最後の一文だ。
『 敬虔(けいけん)なカトリック信者で修道女でもあり、
隔離中は若い世代のために祈りをささげていたという。』
若い世代のために祈りをささげていた
ふと思った。
このような危機に直面している時であっても、自分のことではない、若い世代のために祈りを捧げるという行為はなかなかできるものものではなく、難しいのではないかと。自分ではない、誰かのために祈り続ける。
誰かのために
コロナ禍の今、世界中で、誰かのために一生懸命生きている人が沢山いてくださる。
その想いが、地球上で大きな力となって、人間にとって本当に必要な何かが生まれてきているような気がしている。
改めて考えてみると、コロナ禍でもう何ヶ月も医療現場や各施設で、寝る時間や休む時間も取らずに従事されている沢山の方々がいる。普通だったら、現場が崩壊してもおかしくはない。
それをとどめている一番の要因は、
『苦しんでいる人のために力を尽くしたい。』
『一人でも多くの命を助けたい。』
現場の方々がそう強く願いながら、限界ギリギリのところで頑張ってくださるからだと思う。
思いの強さが肉体の限界を助けてくれているのではないかと、116歳のランドンさんの記事と重なった。
誰かのために
この思いは、実はマナーの原点ではないかと、強く思っている。
ビジネスマナーや接遇マナーの時間に、受講生から、
「覚えることが一杯あって大変そう」
「知らなくて恥ずかしい」という声をよく聞く。
マナーは難しいものだと思われがちのようだが、目の前の相手に自分に何ができるか。そう想えることが、形式より何よりも大切ではないだろうか。
電話の向こうの相手が気持ちよく話せるように。
そう願って声をかけたい。
「おはようございます」
自分の笑顔と声で、相手の心がパッと明るくなったり、嬉しくなったり。
そう願って挨拶したい。
知らない誰かであっても、その人を大切に想う気持ち。
その想いから発せられる行動は、きっと温かくて素敵だ。