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空間を心の中とマッチさせる

自分でも驚くのですが、もう中年を超える年に近くなって、私、モノを殆ど持ってません。

家もなければ車もなく、さして高級なアクセサリーとか洋服とかもなく、旅の思い出の置きものとか、美術品とかもなく、テレビもベッドも持ってませんし、家財道具はゼロです。幸い、アメリカでは、「家具付きアパート」なるものがあるので、何も持ってなくても全然大丈夫です。しかも、何年か前にニューヨークに移って来た時には、アパートの狭さを知っていたので、散々モノを処分したので、持って行った荷物は、小さなキャラバンに半分もありませんでした。スーパー断捨離です。「持たない」って素晴らしいな!って思いました。今も常に、「何が処分できるかな?」と考えています。見えるところに必要なものだけを置くことにしてから、空間はスッキリとして、モノを片付ける時間も殆どいらなくなりました。引っ越しも掃除も、ずいぶん楽になりました。

でもね、

周りを見回すと、殺風景だなーって思うんですよ。ここまでのモノに対する執着のなさは、どう?って思うんです。無駄なものは買わない。誰かにもらって使わないものは、友達にあげるか、寄付する。とにかくモノを増やさない。私のどこかに「持たないことの美徳」みたいなものがあるようです。

一つ困るのは、今私が必要なものだけを選んで、自分の周りを囲むと、私の所持品全ての八十%ぐらいは、本とか、文献とか、ドキュメンテーションの道具といった、ハードなものになっちゃうんですね。本、大好きですし。いや、もちろん仕事に必要なものだけじゃなく、愛する植物や好きな絵なんかも、ありますよ。もう一つ困るのは、モノが少ないと、引っ越ししやすくなってしまうことです。それで、すぐに引っ越しするから、今住んでいるところは一時的だから、何かが気に入っても、好きでも今買うのはやめとこうとなり、「持たない」サイクルを繰り返してしまう。

いつでも動ける、いつでも捨てられる状態は、確かに自由ですし、捨てて空間ができると、新しく入ってくるものもあります。でも、「手放し」が癖になると、「愛着」や「執着」から遠いところに自分を置いてしまうんです。「愛着」や「執着」を避けるようになるかもしれない。

断捨離は、「モノへの執着を手放すことで、自分を見つめ直してより良い人生を送るための術」だと言われていますが、そうでしょうか。無駄なものがなく、素晴らしく整っている空間に住んでいる人達に、何人も会いましたが、必ずしも自分を見直しているというのではなく、モノだけでなく、人とのしがらみが面倒くさいという人もたくさんいました。「持たない」ことが良いことだと信じていらっしゃるんですが、彼らの住む空間は、整っていても、どこか寂しいんです。それとは逆に、たくさんものがあっても、暖かいエネルギーに満ちて、愛に溢れる空間に住んでいる人達にも出会いました。モノを持っても持たなくても、自分を見つめ直すことはできるんですね。「執着」している人は、執着している自分をみる。「手放したい」人は、「手放したい」自分をみる。

 自分が住んでいる空間は、自分の心の中を映し出しています。

 「ああ、今は散らかって、雑然としているな、これは今の私の中の状態だな」とか、「片付いてきたな、中が整ってきたからだな」とか、「空っぽだな、寂しいな」とか、認識する。腎臓が悪い人は、クローゼットの中を片づけなさいというように、自分の中がガチャガチャしていても、掃除をすると気が変わってスッキリすることもあります。また、自分の中が変化してくると、頭の中で考える前に、体は動き始めて、空間を心の中とマッチさせようとします。「自分の中が変わってくるから」断捨離したくなるんです。

空間と人間の関わり、モノと人間の関わりは、これからどんどん変化して行くでしょう。デジタル化が進む社会では、「モノを持たない生活、人がいない空間」への動きが進んでいますが、無人のコンビニ、空港、お店が増え、手にとることができる本やCDがデジタルになり、形ある触れることができるものは、これからますます減っていくことでしょう。「モノを持たない生活」が奨励されてゆく未来に、複雑な思いをはせるのは私だけでしょうか。

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