ニジンスキーの生まれた日。
天才ダンサーとして今でも「ニジンスキーの再来」と言う言葉に残るほど有名なワツラフ・ニジンスキー。
彼が生まれたのは1889年3月12日でした。
文字通り「生きながら伝説」になったダンサー。
ヘッダーの写真『薔薇の精』では「窓の外に飛び去り」、『アルミ―ドの館』では「飛んだまま降りてこなかった」、『シェエラザード』では「檻から放たれた獣のよう」と表現されました。
また、彼が踊った役を現在見ると「ニジンスキーはこうは踊らなかったはず」ともはや世界中で彼の踊りを見た人が一人も生き残っていないにも関わらず、口にしてしまう強烈なイメージもあります。
実はニジンスキーは動画が一切残っていないダンサーなのです。
時々今回こそ!という話が流れるのですが、実際には出て来たことはありません。
それでも多数残された写真と批評、感想などからニジンスキーのイメージが膨らみ、それぞれの「天才ニジンスキー」像が作られているのです。
とりわけ跳躍で有名になったニジンスキーが振付家として手掛けた最初の作品は1912年『牧神の午後』では小さな小川をぽんと跳び超える以外には跳ぶステップのないバレエでした。身体は正面、顔は横を向き、手は角ばった動きというギリシアの壺絵からイメージを得た振付はそれまでも身体を開いていくバレエとは全く違うものでした。
さらに1913年『春の祭典』ではまさかの足は全て内また、身体を傾け、足を踏み鳴らして踊るというバレエを内側から壊しかねない振付、加えてニジンスキーは振付家に徹し、ダンサーとしては一切出演しなかったこともあり、大変なスキャンダルとなった作品です。
これは再現上演で見ることができるのは以前御紹介したとおりです。
後にロルフ・ド・マレが所有し、バレエ・スエドワの拠点となったシャンゼリゼ劇場のこけら落とし公演でもありました。
ですが、ニジンスキーが1909年のバレエ・リュス初のパリ公演から踊った期間を知ると驚かずにはいられません。たった7年、10年にも満たないのです。
バレエ・リュスを離れた後、最後に出演したのは1919年サン・モリッツでの『戦争』、その後彼が人前で,踊ることはありませんでした。
(サン・モリッツはスイスの保養地で、ロルフ・ド・マレも療養していた場所ですし、トーマス・マンの『魔の山』の舞台でもあります)
そんな短いながらも燃やし尽くした彼のダンサーとしての生き様は今も色あせていないのではないでしょうか。
映像が短くてもいい、出てきたらいいなぁとは思いながら。
追記:2021年は宝塚でバレエ・リュスを重要なモチーフとして取り上げた『ホテルスヴィッツラハウス』が初演されました。大阪公演は中止にになってしまいましたが、ライブビューイングに配信と、多くの人に届く機会になればいいなぁ、と思っています。
作品の描く世界、そしてバレエ・リュスへも関心をもっていただけたらと願うばかりです。(ネタバレになるので差し控えますが、本当にこの状況だからこそ心に残るセリフが沢山!)
5月1日(土)20:30~
バレエ&ダンスの話#9 バレエ・リュスで見る宝塚宙組『ホテルスヴィッツラハウス』
下記よりお申込み下さい。ご参加お待ちしております!
↓
ありがとうございます。 欲しかった本やプログラムを購入し、Ballet Collectionの充実に励みたいと思います!