ヴェニスに死す。
ルキノ・ヴィスコンティの映画も大好きですが、今回はそちらではない方の "Death in Venice"
ディアギレフは8月19日にヴェネツィアの夏の定宿だったグラン・ホテル・デ・バン・ドゥ・メールで死去しました。
長年患っていた糖尿病を悪化させての死でした。
その死の床に間に合ったのはセルジュ・リファール(いつものようにヴェネツィアの駅には迎えに出ていなかったものの、ホテルに到着すると窓からディアギレフは手を振って迎えたそうです)、16日の到着したボリス・コフノ。17日にはウェストミンスター侯爵のヨットで夏の旅を楽しんでいたココ・シャネルとミシアがお見舞いに現れました。
容体の急変を受けてボリスはミシアに電話をかけます。1908年からディアギレフの大パトロネスであり、率直な意見を言い合える「同志」のような存在だったミシアはその日、自分でも何をまっているのか分からないけれど、出かける身支度をして待っていたのだそう。ミシアが到着した時高熱は41度を超え、ミシアが手配したカトリックの神父が最期の祈りを捧げました。
象徴的と言えそうなのは彼が死んだ時、葬儀を出すお金すら残っていなかったのです。彼の全てはバレエ・リュスの活動へ投資されていました。
ですから、本人も貴族として身なりも美しく過ごしていましたが(当日ぎりぎりまでリハーサルがあっても必ず着替えて、パリっとした礼装で観客を迎えていました)でも、長年使っていたというビーバーの毛が付いたコートは「擦り切れていた」と多くのダンサーや関係者が証言しています。
そんな彼の葬儀費用をすべてポンと出したのはココ・シャネルでした。
彼は1920年に『春の祭典』再現上演にのために資金提供したことでそれまで(一部では「お針子」と蔑まれて閉じていた)社交界への扉も開きましたし、1924年には『青列車』の衣裳デザインを依頼されるなどディアギレフからの信頼を得る存在になっていました。
まさか葬儀費用をだしてもらうとは本人も考えていなかったでしょう。
葬られたのはヴェネツィアのサン・ミケーレ島。
後に11個隣りにイーゴリ・ストラヴィンスキーも葬られました。
夏の休暇の間に死去したディアギレフ。
10月にロンドンの劇場でのダンサー達との再会の約束は果たされませんでした。ダンサー達はそれぞれの場所で彼の死のニュースを見聞きしました。
例えばバランシンはアントン・ドーリン、リディア・ロポコワと共に映画『ダーク・レッド・ローゼズ』の撮影に参加中の休憩中に買った新聞で知ったそうです。
ちなみにその映画の出演シーンは下記にアップされていました。
映画の一部で、主人公たちが見る舞台としての登場です。
踊っている若き日のバランシンの数少ない映像です。振付もバランシンによるものですが、彼の特長が出ているというよりは映画の求めに応じた仕上がりと言えそうです。
これはほんの一例ですが、ダンサー達、関係者たちは様々な方法、場面で彼の死を知りました。
カンパニーは彼の死と共に解散するほかなく、ダンサー達はディアギレフの片腕であったグリゴリエフに相談し、ある人は仕事を紹介してもらったり、アドヴァイスをもらったりしました。
やがて、このグリゴリエフはバレエ・リュス・ド・モンテカルロの活動で重要な役割を果たすようになります。そのお話しはまた改めて。