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実家にて 〈 7日目 〉 母と猫と夕暮れ

夜の10時を過ぎると実家の周りは静寂の一言。ただ隣のお風呂の水浴びの音がバッシャーンバッシャーンと聞こえるだけ。私は2階から階段を降り、母のトイレ誘導へ向かう。


夕方、買い物に出た。尿とりパットが少なくなったから。多く吸水する夜用も150mlの2回吸水から6回吸水まであって( ほぼ1ℓじゃん)、4回吸水を買う。1300円くらいで30枚、お買い得商品だ。勤務先の病院では何気なく使っているけど、いざ買うとなったら値段や漏れないかなんていろいろ考えるものね。


帰り道、寂れた商店街に灯が灯る。派手な照明でもネオンでもなく、実直に路地を照らしている。夕暮れに似合う柔らかいオレンジ色の電球だ。灯りが切れて怒られることはあっても、誰もが有り難く思うことも無いくらい当たり前の風景。でも、それに慰められている事に驚く。


植木鉢の陰で子猫がミャーミャー鳴いている。子どもの頃、猫を拾った場所だと思い出す。しゃがんで手を差し伸べてみる。家で飼えないこともない。寂しいならおいでよ。でも、子猫は走って去っていった。誰かを求めている泣き声はそのままに。


昔拾った子猫は、友達に見せようと家に呼んだらもう居なかった。「 出ていったよ 」と母は言った。しょうがないので家で遊んでいるとミャーミャーと泣き声がする。なんと、押し入れに入っていたのだ!「 あら、見つけた?こっそり捨ててこようと思ったのに、しょうがないから飼おうかね 」


昔は猫のトイレトレーニングという言葉がなかった時代だったから、母と猫とのバトルは激しかった。家中の柱を爪で研いで廻り、至る所で粗相をする猫に「あーもう 別居しゅーごたる! 」と怒鳴る母。当時別居という意味が分からず、何の単語か??マークの幼い私。( ちなみにしゅーごたるは方便で、したい、という意味 )


発情期を迎えお腹が大きくなった猫に、ダンボール箱とタオルでベットを作ってやり母と出産を見守ったこともある。親になった猫は、生まれたての子猫をなめて薄い膜をはがしてやり、おっぱいをふくませる。本能に組み込まれているのね。誰も教えてないだろうに。


何度か子猫を産むたびもらい手を探し、そのたびに居なくなった子猫を探す母猫の切ない泣き声は今も耳に残っている。まだ、ペットを虚勢するとか、キャットフードなんて言葉も無かったあの頃。


そんな猫も歳を取り、ある時突然居なくなった。発情期に何度か帰らない日もあったから、また会えると思ってた。数日後、父が見かけたと、「 ニャアー 」って鳴いてた、というから安心していたけど、もう二度と戻ることはなかった。



明日朝、母はショートステイへ向かう。それだけでいつもとは違う夜になる。この感じは、ちょっとだけ、ほんとに少しだけだけど、娘が結婚する前の夜に似ている。


家族というのは面倒だ。娘の幸せを喜ぶよりも淋しさの分量が多かったり、実家暮らしがそろそろ限界と思っていても、出て行く後ろ姿に妙に感傷的になってしまう。自分の物語の中で家族って、最重要登場人物なのだ。好きでも苦手でも、同じ歴史を生きているから。どんな別れでも◯◯ロスになってしまうんだ。


まあね、明日行っても、早々と明後日帰ってきて、これからは火曜、水曜が実家でそれ以外はショートステイという繰り返し。今の時代主流になりつつあるもの。壮年期って人生の夕暮れってそんなもんじゃない?何も嘆く事はない。そうなにも。





それでも、89歳という年齢はいちどの別れが永遠のサヨナラになるかもしれない。言葉には出さなくても、お互い知っているのだ・・・



静寂の中、遠くで猫の泣き声が聞こえたような気がした。





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