若草色のマフラー
休日、いつものようにバスに乗る。朝の気まぐれな天気のせいで、乾いた雨が水玉になって車窓に跡を残す。窓の向こうはきれぎれの青い空。風はさすように冷たい。首に巻きつけたのは若草色のマフラー。好きな色を身につけると少しだけ気分が上がった。
昨日の夕方、ケアマネさんから連絡があった。母がまた車椅子から滑り落ちたと。幸い、怪我もなく痛みも無いと。今日は母をお風呂に入れる日だったけど無理かな、私も腰が痛いし、日曜日に入れようかな、そう思った。
上り道の階段の途中で、大粒の雨が降ってきた。透明なビニール傘に、ぽつぽつ乾いた音が響く。大きめのトートバックとスニーカーの先っぽが、じんわり濡れてきた。身体を縮めながら、足早に実家へ向かう。母は想像以上に元気で、お風呂に入る気満々だった。
「待って、昨日滑り落ちてるし、寒いから今度にしよう」
「いや、どこも痛く無いから入れるって」
「今日は私も腰が痛いし、日曜日に来るからそれまで待って」
「大丈夫だから、自分で立てるし、寒く無い。お腹も痒いから今日入るよ」
「私、腰痛めて仕事休むわけにはいかないんだけど」
「あんたの手はそんな借りんけん、立てるから入る!」
母の湯船に浸かる時間はいつもより長かった。20分以上は浸かっていただろうか。ぬるいから出れなかったと母は言った。
ケアマネさんに相談して、入浴介助のサービスを打診してみたが、難しいと言われた。今いるスタッフで、ひとりで母を安全に入れきれる自信がある人はいないと。ふたり体制ならどうにか出来るかもしれない、でも、人出不足で期待はしないで欲しい。デイサービスでの入浴なら良いのですが、と。
少し険悪な雰囲気になって実家を出た。母はわかってくれない。先月母の入浴介助が原因で腰を痛めたことも、仕事をしないと生活出来ないことも、私が倒れたら、両親の面倒を見てくれる人はいないって事も。
遠い記憶が蘇る。幼い頃、友達が私のおもちゃを欲しがって、嫌々ながら渡してしまった。友達のお母さんは『貰ったらだめよ』って、返してくれた。母は『お友達なんでしょう。一度やったのなら返してもらうんじゃ無いわよ』そう言って、おままごと用のソフトクリームをその子に渡した。
雨の日の出来事も、思い出す。幼稚園の頃、雨の日はいつも、母が幼稚園の近くまで迎えに来てくれた。あの時、回り道をしようと言う友達を振りきって、母との待ち合わせの場所に行った。その日は傘がいらないくらいの霧雨だった。母は来なかった。友達は『お母さん来ないじゃない、嘘つき』そう言って帰って行った。
母はわかってくれない。母だけじゃなく、人にわかって欲しいと思うのが間違いなんだ。あれをして欲しい、これをして欲しい、何でこんな事するの?!どうして言った通りにしてくれないの!!でも、相手に期待しないと決めたら、過度なストレスを感じなくて済むんだ。
頭では完全に割り切っているのに、また母に期待してしまった。こちらの気持ちを言ってわかってくれる人ではない、今までも、これからも、そういう人なのだから。
帰り道、雨は上がっていて、水滴を切って傘を閉じた。首に巻いたウールのマフラーには、一箇所虫食いの跡があった。それは数年前、母の日にプレゼントしたものだった。一度も身に着けてくれることもなくタンスの隅に埋もれていたそれを、今は私が使っている。
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