見出し画像

記憶が溢れても居ていいんだよ

 上品な言葉がほろり「ありがとうございます」「貴女も忙しいでしょうけど、お身体に気をつけてね」いつも相手を気遣う言葉を発する人。今はもう、記憶が曖昧で、認知症と診断された人。

 70代の齢のアイさんは若い頃、都会で雑誌の編集に携わっていたという。英語も堪能で(私が英語を喋れず会話する機会がないのが口惜しい!)海外の雑誌記者とも交流があったらしい。「あの頃は面白かったわよ」昔の記憶がいっとう鮮やかなのが認知症の特徴だ。


▽ ▽ ▽


 布団のシーツは剥いでしまう。ポータブルトイレは分解して水浸しにしてしまう。靴を履いたままベットで寝てしまう。人の部屋に入って物を触ったりベットで寝てしまい、部屋の患者さんを怒らせてしまうetc…。

 何がきっかけで、アイさんは少しずつ変わっていったのだろう?逆剥けた指先の皮膚が薄く伸びるように、見えない別の世界に手を伸ばしてしまったのだろう。脳の衰え?脳血管の滞り?予防法は頼りなく、確実に老いていく現実だけが日々蓄積される。


▽ ▽ ▽


 毎日、病院で認知症の方のお世話をしていると、理不尽なこの病気にやるせなさを感じてしまう。知らないうちに忍び寄って来て、気付けば目の前に立ち塞がっている。まるで、ロシアンルーレット。次のターゲットはあなたかもしれない、私かもしれない、それとも一番大切な存在のあの人かも。

 いずれ引き金を弾く時がくるのなら、それまでを悔いなく自分らしい自分として生きていきたい。面白い人、上品な人、お節介な人情家、貪欲に世界を掴みに行く人、なんでもいい。思い通りに自分らしく。


▽ ▽ ▽

 

 最後の日々を送る病院が患者さんにとって、のんびりご近所の方と過ごしているような場所であって欲しい、そう願う。柔らかい陽だまりのように暖かくて安心できる場所。存在を許されている場所。いずれ、その世界の仲間入りをするかも知れないのだから。

 アイさんの寝顔を見て思う。ただ、穏やかな今があればいいんだ。ポロリと溢れる、記憶のページを集めなくても良いの。アイさんはアイさんで、やっぱり素敵な女性なんだもの。笑顔がいっとう似合うチャーミングな女性なんだもの。







いいなと思ったら応援しよう!