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美の求道者がつくり上げた世界〜【Opera】新国立劇場『オルフェオとエウリディーチェ』

 グルックはいわゆる「オペラ改革」を行った作曲家として音楽史にその名を残す。バロック時代を通して、オペラ・セリア(正歌劇。古典的な題材をもとしたシリアスな内容を持ったオペラ)は歌手の声の技巧を重視するあまり、派手な装飾が多用された長大なダ・カーポ・アリアによって、「劇」の緊張がおざなりにされてきた。グルックはそれに異を唱えた。彼は「音楽は詩、すなわちドラマと人物の心の表現に奉仕するべき」という考えのもと、ダ・カーポ・アリアをやめ、ドラマと関係のない技巧的な装飾を廃した。グルックは劇の場面に応じてふさわしい音楽を生み出す能力に長けていた。その結果として、「単純で自然な美しさ」を持ったオペラが生み出される。『オルフェオとエウリディーチェ』はその好例である。

 新国立劇場がこの作品を新制作するにあたり起用したのが、ダンサーであり振付家として名高い勅使河原三郎である。彼は2016年・17年にモーツァルトの『魔笛』を手がけているが、はっきり言ってその時の演出は「オペラ」と呼ぶのが憚られるほど「ダンス」に全権を明け渡したようなものだった(この件についてはこれ以上詳しくは書かない)。今回も4人のダンサーが起用されたが、結果から言うと『魔笛』の悪夢を払拭するような素晴らしい出来だったと思う。

 何よりも目をみはったのが舞台の美しさである。百合の花をモティーフにした装置はいくつかのバリエーションを持ち、黄泉の国では花がアンティーク・ゴールドだったり、エウリディーチェが登場する場面では純白だったりする。また照明が非常に雄弁であることにも唸らされた。大きなお皿のようなものの中で歌手が歌うのだが、そこに映し出される影まで計算されていたのではないかと思う。例えば、第3幕でエウリディーチェが絶望のあまり歌うアリア「何て残酷な瞬間!」では、エウリディーチェの腕の動きに目を奪われるのだが、おそらく照明の当て方のためだと思うが、その腕の影が4本あるのだ!一旦は命を奪われた存在=人間ではないエウリディーチェというものを4本の腕を持った影が雄弁に物語るのだ。衣裳はシンプルだが上品で、装置の美しさにマッチしていた(合唱はコロスなので全身黒づくめなのは致し方なかったが)。私はダンサーのクオリティを評価する術を持たないが、そんな私でさえダンサーたちのコントロールされた動きには魅了された。

 このように本プロダクションは、徹底的に「視覚的な美」が追求されていた。言いかえれば演出家の美意識が寸分の隙もなく隅々まで行き渡っていた舞台だったといえる。その「美」は到底余人では真似できないレベルのものであったことは間違いない。しかしそのために、個人的には「オペラを観た/聴いた」ときとは違う感覚を持ったこともまた、確かだ。ここではオルフェオの愛も、嘆きも、エウリディーチェの苦悩も、慟哭も、すべてが「美」という圧倒的な核を具現化するために様式化される。先ほど例に挙げたエウリディーチェのアリア「何と残酷な瞬間!」でのエウリディーチェの手の動きに注目すれば、それは人間が強い感情を抱いた時に思わず動いてしまうというようなものではなく、非常に様式化され単純化されたものなのだ。そのように様式化されているからこそ「エウリディーチェの絶望」というものが「美」として昇華されている、ともいえるのだが。

 オペラが、「音楽によって人間のドラマを描く」ものだという認識は、18世紀にはまだコンセンサスではなかった。それどころか、19世紀になってもまだ、イタリア・オペラは「ベルカント=美しい声」を第一義的なものと考える。もちろん、そうした大きな流れの中でも意図するとしないとに関わらず音楽によって「ドラマ」を描いた作曲家はいる(モーツァルトを思い出す人は多いかもしれない)。グルックのオペラ改革がその先陣を切ったものだとすれば、本プロダクションのような描き方が果たして、グルックの求めるものと合致しているといえるのだろうか。確かに、ここにみられる古典的でシンプルな「美」は、グルックが良しとしたものと一致しているようにみえる。しかしもう一歩進んで、「ドラマ」というものが何を描くべきなのかという視点に立った時、私はやはりもう少し血の通った表現を観て/聴いてみたいと思うのである。

2022年5月21日、新国立劇場オペラパレス。

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室田尚子
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