ロック少女が見たクイーン〜『日本でロックが熱かったころ』より転載
映画「ボヘミアン・ラプソディ」の大ヒットを受けて、巷にはクイーンについての言説があふれかえっている。そもそもこの映画自体が、クイーンというバンドの歩んだプロセスをかなり“大ざっぱに”まとめることで、バンドの「大きさ」「メジャー感」とでもいうような要素を前面に押し出しているので、この映画だけでクイーンを知った人たちは、クイーンがデビュー当初から圧倒的な支持を取り付け続けた「メジャーなカリスマ・バンド」だと思っているかもしれない。しかし、この捉え方は私には少々違和感がある。少なくとも1970年代末から80年代にかけての日本においてクイーンというバンドは、メジャーなハード・ロックとは違う存在、として認知されていたと思う。
この辺りの事情について、私は、『日本でロックが熱かったころ』(青弓社、2009年、共著)の第6章「ロック少女は王子様の夢を見たか ——「ビッグ・イン・ジャパン」と呼ばれたバンドたち」の中で詳しく書いた。ここにその第6章から「はじめに」とクイーンについて書いた部分を転載するので、ぜひ、当時の「ロック少女たち」がクイーンをどのように受容していたのかについて、考えていただければと思う。
はじめに
「ビッグ・イン・ジャパン」という表現が音楽雑誌などで使われ始めたのは、1980年代に入ってからのことだ。欧米のバンドでありながら「日本でのみ」人気のあるスターを、一種揶揄する意味で使われることが多い。Wikipediaでは、「日本ではビッグスターだが日本以外では、それほどのスターではない(なくなった)外国人スター、およびその状況に対するレッテル」*1 という定義づけがなされている。古くはザ・ベンチャーズなどがこれにあたるかと思われるが、本書で取り扱われる70年代から80年代前半にかけての「ビッグ・イン・ジャパン」アーティストといえば、真っ先に名前があがるのが、クイーン、チープ・トリック、ジャパンの3バンドだろう。彼らはいずれも、本国(クイーンとジャパンはイギリス、チープ・トリックはアメリカ)では無名、もしくはほとんど人気のなかった時期に、日本で爆発的といっていい人気を博し、その後欧米でも人気が加速して「ビッグ・スター」となった。
1966年生まれの私は、この時期ちょうどロックを知り、ロックを聴きまくっていた「ロック少女」だった。特にジャパンは、「わが青春のカリスマ」とでも言うべき存在で、来日公演の時にはチケット発売の前日に徹夜でプレイガイドに並び(こういうチケットの取り方も、今となっては懐かしいものだ)、生ジャパンに胸を熱くした。五枚のアルバムはもちろん発売日に購入し、『ミュージック・ライフ』や『音楽専科』のジャパンの記事は切り抜き、さらにはジャパンメンバーをキャラクター化した少女マンガや小説まで愛読するというイカれっぷりだった。そんな私のロック仲間の中には、当然クイーン、チープ・トリック、それぞれのファンもいたが、彼女たちのイカれ方も、おおむね私のジャパンに対するそれと似たり寄ったりだったと記憶している。
こうしたバンドが当時、日本でどのように受け入れられていたのか、また彼らはなぜ日本で爆発的な人気を博すに至ったのか、を解明してみようというのが、本章の目的である。取り上げるのは前述した3バンド。この三バンドがどのように日本に紹介され、ファンを獲得していったのかを、雑誌『ミュージック・ライフ』(以下『ML』)の記事を中心に追いかけながら探っていく。
なぜ『ML』の記事を中心的に取り上げるのかについての理由はいくつかある。まず、70年代から80年代にかけて、『ML』は日本の洋楽雑誌としては最高の発行部数をもっていたこと。*2 そして何よりも、「ビッグ・イン・ジャパン」アーティストの誕生に『ML』が主体的に関わっていた、と考えられるからだ。もともと『ML』はジャズや洋楽系のポップスを取り上げる雑誌だったが、1965年に編集長に就任した星加ルミ子が編集の実権を握った63年頃からロックへと大きく舵を切り、ビートルズを特集した64年以降、アーティストの写真と紹介記事を大々的に掲載するロック雑誌として飛躍的に発行部数を伸ばした。星加が言うようにその編集方針は、女の子の「『あー、いい!』とか『素敵!』とか『キャー!』とか『ワー!』とかいう感覚」*3 に基づいたもので、要するに自他ともに認める「ミーハー雑誌」である。だがこのミーハー感覚こそが、『ML』が日本独自のスターを開拓する素地だった。ビートルズ以降、『ML』は、あまり売れていないアーティストの中から次世代を担うようなスターを探し出しては、グラビアや記事で取り上げ人気を仕掛けるようになる。『ML』の名物編集長だった東郷かおる子は「70年代から80年代前半までは日本独自の選択眼で新しいバンドなりミュージシャンを発掘して育てることが可能だった。」と延べ、チープ・トリックは「まさに『ML』向きのバンドだった」「まだ本国での知名度が低かったのも、日本市場で育てるには、もってこいだった。」と回想している。*4
『ML』以外にも、彼らを「ビッグ・イン・ジャパン」に仕立て上げたのは、例えばレコード会社などいくつかの要素がある。特にチープ・トリックについては、彼らがアメリカ本国で人気を得るきっかけとなったアルバム『at武道館』をリリースしたCBSソニーの存在は無視できない。また、何よりもファンの存在なくしては、彼らが「ビッグ」になることはなかったはずだ。当時のファンの姿を知る手がかりは、他ならない私自身である。なぜなら、当時彼らのファンを形成していた大部分は「十代の少女」たちであり、私はまさにその「十代の少女」のひとりだったからだ。自分自身の体験をどこまで客観的に記述できるかはわからないが、送り手側のレコード会社、マスコミに対する受け手側のファンの一人として、当時の自分自身の感覚も振り返ってみたいと思う。
クイーン 「ロック少女」を生み出した貴公子たち
クイーンは1973年7月に、アルバム『戦慄の王女』でデビューした。翌74年3月にセカンド・アルバム『クイーンII』、11月にサード・アルバム『シアー・ハート・アタック』をリリース。日本では、本国イギリスに遅れること8ヶ月の74年3月に『戦慄の王女』が、6月に『クイーンII』、12月に『シアー・ハート・アタック』がそれぞれリリースされている。
日本ではじめてクイーンが紹介されたのは、『ML』1974年1月号*5 のことで、「伝統と貧困のなかから出発した若きブリティッシュ・ロックへの期待」と題する記事の中で、「プログレッシブ・ロックの新しいグループとしてハードロックのナザレス、シルバーヘッド、ジェネシス、クイーン、ELOなどが出てきている」と紹介されている。当時、日本で人気のあったロックバンドを知る手がかりとして、『ML』が行っている人気投票があるが、1974年3月号に掲載された74年度人気投票最終結果発表では、グループ部門の1位がレッド・ツェッペリン、2位がイエス、3位がエマーソン・レイク&パーマーとなっている。同じ3月号にある「今月のVIP」というコーナーで「視聴覚ともに訴える実力はグループ」としてクイーンが取り上げられているが、「VIP」とは「近い将来必ず音楽業界のVIPとして、君臨するであろうと思われるミュージシャンである」という位置づけだ。この時点ではまだ『戦慄の王女』の日本発売はされていないので、輸入盤を聴いてクイーンに目を付けた『ML』の記者が、来るべき日本デビューに向けて紹介する、といったところだろうか。
ファースト・アルバム『戦慄の王女』の日本リリースと前後して、『ML』では本格的なクイーンのプッシュが始まる。まず4月号の「新譜紹介コーナー」で同アルバムは★4つ(聴く価値あり)の評価が与えられ、「彼等の場合、少々その個性にただのハード・ロックといってかたづけることの出来ないものが感じられます。」(東郷かおる子)と評されている。5月号では「イギリスの新しいアイドルはこれだ!!」と題して、クイーンがトップ・バッターとして初めてグラビアを飾り、「ルックス良し、音良しの華やかな雰囲気をもった若者たちだ。」とそのヴィジュアル面への言及がみられるのである。この時の写真は、クイーンがまだ全員長髪だった時代。いかにも王子様風のさわやかな笑顔のブライアン・メイの肩に、キリリとした凛々しい表情のフレディ・マーキュリーと、やや飄々とした風情のジョン・ディーコンが手をおき、ブライアンに寄り添うようにカワイイ系ロジャー・テイラーが配置されるという、いかにも少女たちの心をくすぐるスナップ風写真。このグラビアを撮った人物は、なかなか少女心をわかっていたと思われる。翌六月号でも、見開きの白黒グラビアに登場。長髪にメイク、羽飾りをつけた衣裳、と、いかにもヴィジュアル重視の華やかなバンド、といったイメージが強い写真だが、添えられたコメントは「耳の早いロック・ファンの間では、すでに人気急上昇のグループが、このクイーン。レッド・ツェッペリンに迫る唯一のグループといわれているだけに…(後略)。」と、クイーンの音楽的実力に言及するものとなっている。
『ML』が本格的に少女ファンを意識し出したのは、1974年7月号からだ。ここでクイーンはカラー・ピンナップに初登場。さらに特別企画として「爆発的人気!!麗しきクイーンの秘密」と題して6ページにもわたる特集が組まれている。東郷は、「耳の早いロック・ファン」に注目されていたクイーンが、デビューと2枚目のアルバム発売を機に少女ファンを獲得していき、その勢いが無視できなくなった、と回想している。「『生年月日を教えて』『ファン・レターの宛先は?』『メンバーの家族構成は?』『恋人は?』。彼女たちはバンドに関する、ありとあらゆる情報を知りたがった」*6 というのだ。 爆発する少女ファンの増加を受けて、10月号における人気投票中間発表で、クイーンはグループ部門初登場4位。12月号では初の表紙を飾る。そして翌1975年3月号で発表された74年度人気投票最終結果では、エマーソン・レイク&パーマー、レッド・ツェッペリンに続く堂々の第3位で、ブリティッシュ・ロックの新旧世代交替を印象づけたのだった。
クイーンの初来日は1975年4月17日。羽田空港にはおよそ1200人の少女ファンが詰めかけ「ビートルズ以来」とマスコミに騒がれた。コンサートは4月19日の東京・日本武道館を皮切りに7都市8公演。もちろん『ML』は6月号で「本誌独走取材」と銘打ち、カラーグラビア、インタビューなど多数ページをさいてクイーン来日を特集。さらに10月にはクイーン特集号の臨時増刊号も出た。
クイーン初来日の1975年は、私はまだ9才で、残念ながらロックのロの字も知らない時期。私がクイーンを知った頃(おそらく78年頃)には、すでに彼らは日本だけでなく、本国イギリスやアメリカでも押しも押されもせぬスターとなっていたので、正直クイーンが「ビッグ・イン・ジャパン」であるという感覚を持つことはできなかった。また、そもそもデビュー当時でさえ、本国イギリスやアメリカではそれなりにアルバムセールスもあり、チャートにも入っていたので、特に日本から火がついたというわけではない、という指摘もある。*7 だが、日本における初期のクイーンの人気を支えていたのがローティーンの少女たちだった、という事実は注目に値する。
東郷は、「クイーンが日本のロック界にもたらした最大の産物は『ロック少女』だった」と指摘している。*8 そもそも、ロックは男性性と強い結びつきをもった音楽であり、それは70年代当時の日本においても同様で、ロックの聴き手として想定されていたのは、圧倒的に「少年(もしくは男性)」である。特に、ハード・ロックと呼ばれるジャンルに属する音楽は、「マッチョな不良少年の音楽」というイメージが強かった。クイーンは「レッド・ツェッペリンに迫る唯一のグループ」などの評価をみてもわかるように、音楽的にはハード・ロックに属するものだと考えられたが、「どこか人工的で倒錯的なセクシュアリティに満ちた(当時の)彼らの持つ雰囲気」*9 が、マッチョな少年よりも少女たちの感性を刺激したのである。しかし多くの少女ファンを獲得したことで、逆にクイーンは「女子供の好むロック」という蔑みを受けることにもなった。私がクイーンを知った78年頃でさえ、まだクイーンというとどこかで「本物の(=男らしい)ハード・ロックではない」という雰囲気が漂っていたように思う。しかし、「少女が好む=ルックスだけで音楽性が低い」というのは不当な中傷だ。ロック少女とは、「そのアーティストの生き方とか発言とかファッション哲学とか、もちろん音楽性も含めたすべてを総合的に見て、それで彼女たちがよしと思ったものに対してキャーキャー言う」*10 という東郷の意見は貴重である。当時自分が好きになったバンドの何を好きになったのか、と問われれば、確実に「音楽、外見、ファッション、生き方すべて」と答えたし、それは私の周りにいたクイーン・ファンの少女たちも同じだった。あるバンドを好きになる、ということは、それらすべてをひっくるめた総体を愛することに他ならない。それが「ロック少女」のロックに対する接し方だったのだ。だからこそ、アルバムを買って聴くというだけでなく、アーティストのプライベートに対する質問を手紙で送ったり、来日の時に空港に出迎えに行ったり、という行動になって現れるのだ。
欧米ではクイーンが少女ファンによってアイドル的に騒がれる、といった現象はなかったという。クイーンというバンドの「すべて」を愛した日本のロック少女たちの熱狂が、ただ「音楽だけ」を愛するというファンよりも劣る、ということは決してないし、彼女たちのそうした愛し方が、初期のクイーンに「ビッグ・イン・ジャパン」の評価を与えているのだとすれば、それはむしろ誇っていいことだ、といったら言い過ぎだろうか。
*1 http://ja.wikipedia.org/wiki/ビッグ・イン・ジャパン
*2 70年代前半、『ML』は印刷部数において10万部程度をコンスタントに確保していた。ちなみに同時期にロック・ファンに人気のあった『ニューミュージック・マガジン』で推定2〜3万部、『ロッキング・オン』で推定一万部。(篠原章『日本ロック雑誌クロニクル』大田出版、2005年、82ページ)
*3 篠原、2005年、74ページ。
*4 東郷かおる子『わが青春のロック黄金狂時代 ビートルズからボン・ジョヴィまで』角川SSC新書、2007年、79ページ。
*5 発売は1973年12月20日。『ML』については特に断りがない限りすべて、前月20日発売となっている。
*6 東郷、2007年、56ページ。
*7 広田寛治「日本でのクイーン神話の検証」『文藝別冊 総特集QUEENクイーン 伝説のチャンピオン』河出書房新社、2003年、64〜72ページ。
*8 東郷、2007年、53ページ。
*9 東郷、2007年、55ページ。
*10 東郷かおる子「あとにも先にも例のない唯一無二の個性」『文藝別冊 総特集QUEENクイーン 伝説のチャンピオン』河出書房新社、2003年、85〜86ページ。
※第6章では他にジャパン、チープ・トリックについても考察しているので、ご興味のある方はぜひ書籍をお読みいただきたい。
『日本でロックが熱かったころ』(井上貴子編著、青弓社、2009年)
第1章 熱さの根源としての「ロックする身体」——ウッドストックからJ-ROCKまで 井上貴子
第2章 世界と日本のロックの始まり 佐藤良明
第3章 日本が体験したロックのリアリティ——現場から捉えたライブ・シーンの変遷 増渕英紀
第4章 ロック・キーボードの進化と変化 難波弘之
第5章 パンクの精神性と地域性 南田勝也
第6章 ロック少女は王子様の夢を見たか——「ビッグ・イン・ジャパン」と呼ばれたバンドたち 室田尚子
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