【Opera】東京二期会『ローエングリン』
オペラの醍醐味とは何だろう。美しい音楽と豪華な舞台装置、現実を忘れさせてくれるひとときの夢物語。それも確かにひとつのオペラの楽しみ方だ。だが、何百年も前につくられた音楽によるドラマがただの絵空事ではなく、自分自身の生そのものを強く揺さぶるようなものとして立ち現れたとき、そのとき私はオペラの底知れない「力」を感じずにはいられない。今、ここに生きる私たちの世界と作品世界がリンクする。繰り返し上演されてきた名作といわれるオペラには、潜在的にそのような「力」があるのだと思う。そして、その「力」を掘り起こし、具現化するのが演出家の仕事だ。
東京二期会が39年ぶりに上演したワーグナーの『ローエングリン』は、これが2度目のオペラ演出となる映画監督の深作健太の手に委ねられた。それは、深作のワーグナーへの並々ならぬ愛と、映画監督としての経験から生み出された、他に類を見ないプロダクションとなった。
深作は、ローエングリンを、このオペラを誰よりも愛した19世紀後半のバイエルンの国王ルートヴィヒ2世に重ね合わせた。それは、オペラの舞台である中世ドイツのブラバント公国が強国ザクセンからハンガリーとの戦いへの参加を求められる状況と、ルートヴィヒ2世時代のバイエルンがビスマルク率いる強国プロイセンから普仏戦争への参加を要請されている状況が重なっているところから発想されている。前奏曲の途中で幕が開くと、『ローエングリン』の楽譜を携えた年老いたルートヴィヒ2世が現れ、そこで彼は、初めて『ローエングリン』を観て雷に打たれたような衝撃を受けた幼い頃の自分と、そしてずっと夢に見てきた理想の騎士=ローエングリンの幻影を見る。
子役:黒尾怜央、青年時代のローエングリン:丸山敦史
第1幕は建設中のノイシュヴァンシュタイン城を舞台に、ルートヴィヒ2世の脳内で繰り広げられる幻想のオペラ『ローエングリン』が始まる。そこでは、彼の主治医グッデンがテルラムントに、ビスマルクがザクセン国王ハインリヒに、ビスマルクと通じている総理大臣ルッツがハインリヒ王の伝令となっている。そしてエルザには、彼が生涯憧れ続けたオーストリア皇妃エリーザベトの面影が重なって見えているようだ(そのエルザは「白鳥の騎士を夢に見た」というとき、まっすぐにルートヴィヒを見据えている)。こうして、ルートヴィヒは脳内の理想の女性の強い訴えによって、ついにローエングリンとなって立ち上がる。
ローエングリン/ルートヴィヒ2世:福井敬
戦争を嫌い(というより命を奪うことを嫌い)、政治に興味を失ったあとはワーグナーの音楽と築城だけに没頭した挙句、最後は大臣たちによって「統治不可能」の烙印を押され幽閉された直後に湖で死体となって発見された、歴史に名高い「狂王」ルートヴィヒ2世。もちろん深作の中には、巨匠ヴィスコンティ監督の映画「ルートヴィヒ」があったに違いない。ヴィスコンティ映画でのルートヴィヒは最後まで「狂人」には見えない。ノイシュヴァンシュタイン城内にワーグナーのオペラのシーンそっくりの部屋をつくってワーグナーの音楽を聴き、あるいはお気に入りの俳優を呼び寄せて日がな一日シェイクスピア劇のセリフを言わせたり、といった「奇行」はあるが、それは血なまぐさい現実よりも「美」を追い求めるが故の姿だ。問題は、彼が為政者であったこと。現実の政治を進めるためには、王が「美」に逃げ込んでいては困るのだ。歴史ではルートヴィヒは限りなく謀殺を疑われるかたちで生涯を閉じるのだが、深作演出では彼はローエングリンになった。それを歓迎したのは、他ならぬルッツとビスマルク、そして彼らに同調するバイエルンの貴族たち。第1幕では、ローエングリンとなったルートヴィヒにルッツが書類(おそらくプロイセンに協力するという内容)にサインをさせ、ルッツとビスマルクが握手して喜び合うという場面が挟まれていた。
ルートヴィヒがローエングリンとなったことでもたらされたのは、戦争へと引き込まれる現実である。第2幕では、戦いで傷ついた兵士たちを医師であるグッデン=テルラムントと、看護師であるオルトルートが治療している。
オルトルート:中村真紀、テルラムント:大沼徹
死者を弔う十字架が林立する中、館の中からは戦いに勝った宴に沸き立つ人々の笑い声が聞こえてくる。オルトルートは、キリスト教が支配する国でただひとり古代の神ヴォータンを信奉する女性という扱いで(だから隻眼になっている)、彼女がエルザとローエングリンを忌み嫌うのは、自分が国を手に入れたいからというよりも、彼らによって国が戦争へと巻き込まれていくことに抵抗しているからのようにみえる。テルラムントも同様で、つまり、本来オペラでは「悪役」であるこの2人の方が、戦争に進もうとする状況を押しとどめようとする「正義」の役割を担っているのである。ちょうど原作とネガとポジが逆になったようなこの読み替えには唸らされた。
第2幕でローエングリンとエルザの結婚を喜ぶ人々に、王の伝令はローエングリンの言葉としてこう告げる。「今日はみんなで祝宴を楽しもう。しかし明日は武装して戦いに赴く」。
ローエングリン:小原啓楼
その言葉に熱狂する人々の姿が、今、日本を跋扈しているネトウヨに重なって見えたのは私だけだろうか。まだ舞台が出来上がる前に深作にインタビューをしたとき、彼は本作で「英雄とは何か」を問いたい、と語った。正しく美しい存在に大衆は憧れ取り込まれていくが、だからこそ正しく美しい存在=英雄は危うい。深作は、『ローエングリン』というオペラを単なる「英雄賛美の物語」としてではなく、英雄に取り込まれていく人々の物語として、さらには強国アメリカに協力させられながら猛烈な勢いで右傾化していく現在の日本の状況をも重ね合わせた物語として描き出そうとしたのではないか。
そう考えると、第3幕でローエングリンがルイ14世の扮装をしてエルザと踊る場面の滑稽さが、別の意味をもってくる。為政者が滑稽であればあるほど、人々を待ち受ける運命は闇へと滑り落ちていくのだから。(ちなみに彼がここで着ているのはルイ14世が踊ったアポロンの衣裳で、このシーンはジェラール・コルビオ監督の映画「王は踊る」からの引用だろう。ルートヴィヒ2世はルイ14世に憧れていて、ヴェルサイユ宮殿そっくりのヘレンキームゼー城をつくったという史実も下敷きになっている。)
エルザ:木下美穂子、ローエングリン:小原啓楼
だがもちろん、それだけが深作の狙いではないだろう。もう一度繰り返すが、本作で主人公に据えられたルートヴィヒ2世は、戦いよりも美を、政治よりも愛を重んじた人だった。だから彼は、理想の女性たるエルザに乞われたことでローエングリンになるのだし、そしてエルザが禁問の誓いを破ることで元のルートヴィヒに戻ってくる。第3幕第2場でルートヴィヒは拘束衣を着せられてビスマルクたちの前に連れられてくる。そう、戦いから逃げ出そうとするルートヴィヒは、彼らにとってもはや価値はないのだ。こうして「統治不可能」の烙印を押された史実がリンクする。ローエングリンが素性を明かす有名な「グラール語り」が、これまでに聴いたこともないような悲しみと切なさをまとっていたのは、もはや美に生きられないルートヴィヒの心の叫びだったからに違いない。
グッデン/テルラムント:小森輝彦
ラスト、ルートヴィヒ/ローエングリンは蘇ったエルザの弟ゴットフリートを「次のFührer(指導者)」と呼び、自らはグッデン/テルラムントを道連れに湖に身を投げる。いうまでもなくこの「Führer」とはヒトラーが自らに冠した地位(日本では「総統」と訳される)だ。少年が率いていく世界がナチスの悪夢の再現となるのか否か。舞台では、それまでずっと天井高くにあった白鳥の羽を模したオブジェが降りてきて、戦争に熱狂していた人々を押しつぶしていく。ただし、エルザとオルトルートの2人だけはそこから外れて生き残る。子どもと女性たち。新しい世界に希望を託したい、という深作の思いがそこにはあるような気がした。
様々なオマージュと仕掛けに満ちた深作演出は、実に刺激的であり、また「今、ここでこのオペラを観る意味」を強く感じさせるものだった。問題は、あらかじめ読み替えについての予備知識がないとわかりにくかった点だ。そのためにプレトークなどがあったが、「オペラ鑑賞に際しては一切の前情報は入れない」という厳格なピューリタンの人にとってはそこが批判のタネになっていたようだ。しかし、現実問題としてこれだけネットが発達している現在、得られる情報は得てから鑑賞に臨むという態度は、決して悪いことではないと私は思う。情報は取捨選択できる。また、普段理論や知識を得ることに熱心な層(つまりクラオタ)ほど深作演出の「前提条件」に批判的で、むしろ普段オペラもワーグナーもあまり(もしくはまったく)観ないという人の方がシンプルに感動していたように見受けられたのは、なかなか面白い現象だったと思う。
演奏についてだが、準メルクル率いる東京都交響楽団が出色の出来ばえ。弦の美しさは筆舌に尽くしがたい。都響はぜひ今後はもっとオペラのピットに入って欲しい。オケがあまりにもすごかったので、歌手陣が割りを食ってしまった感があるのは否めない(もちろん、オケの音が大きすぎたとかそういう単純なことではない。準メルクルの歌手に合わせる技術はかなり高い)。そんな中、印象に残ったのはB組のタイトルロール小原啓楼だ。声の輝かしさではA組の福井の方がワーグナーらしいが、小原は深作演出の「美に生きるルートヴィヒ」の心の内面を繊細に表現していたと思う。一方エルザは、ドイツもの巧者の林正子がハマリ役だったのに対し、これまでイタリアもの専門だった木下美穂子が新境地を拓いたという印象。
エルザ:林正子
ある意味本作のキーパーソンの2人、テルラムントとオルトルートにはそれぞれ芸達者が配されていた。特にもっとも原作とかけ離れたキャラクターを付与されたオルトルートは中村真紀と清水華澄が演じたが、丁寧に役の造型を積み重ねていった感のある中村に対して、清水は役が憑依したかのようなドラマティックさ。どちらも存分に魅力的な女性だった。
オルトルート:清水華澄
最後になったが、この舞台、照明の美しさにはなんども息を飲んだ。やはり映画監督がつくった舞台ということだろうか、衣裳やセットも含めヴィジュアル面のセンスが抜群だ。そして気がつけば、ワーグナー嫌いがすっかりワーグナーにはまっていた。深作健太には、ぜひまたオペラの演出を手がけてほしい。そのときは、彼がいちばん好きだという『タンホイザー』が観られるだろうか。
2018年2月21〜25日、東京文化会館。
写真:Lasp舞台写真株式会社