【Opera】新国立劇場『椿姫』
2015年に初演されたヴァンサン・ブサール演出のプロダクション。タイトルロールに、旬のソプラノ、イリーナ・ルングを迎えての再演になる。そのルング、まず美しさに目を奪われる。やはりヴィオレッタが美人じゃないとこのドラマはしまらない。もちろんヴィジュアルだけではない、歌声もさすが世界中のオペラハウスで引っ張りだこなだけはある。第1幕「ああ、そはかの人か〜花から花へ」の大アリアなど、「別にどうということはない」といった風に、つまり(いい意味で)軽々と歌ってしまう。ほぼ出ずっぱりの役だが、フィナーレまでスタミナが切れるどころかどんどんエネルギーを増していくようだ。こういう「馬力感」って、悔しいけど日本人歌手にはなかなかない。外人特有のものだ。
アルフレードのアントニオ・ポーリは、今注目の若手テノール。テノールにしては(失礼)背が高く、ちょっとクマさんっぽい風貌だが、いかにも「なーんにもわかってない純朴な青年」というピュアな声を出す。途中でキャスティングが変更になったジェルモンはジョヴァンニ・メオーニ。最近、この役について(年のせいか)「ジェルモンも娘のことを思っての行動でそんなに悪い人ではないよね」などと思っていたが、久しぶりに「憎らしいお父さん」だった。やっぱりこのオヤジのせいじゃん!ひどい!と思わず拳を握りしめてしまいました。いつも「プロヴァンスの海と陸」のところで、「こんなひどいオヤジにどうしてこんないい歌が」と憤るのだが、今回はこの曲がとてもグロテスクに聞こえた。歌が美しければ美しいほど、ジェルモンとアルフレードの絶望的なすれ違いが際立ってくる。メオーニの表現力のなせる技だ。
ブサール演出は、徹底的にヴィオレッタの「孤独」に焦点を当てていた。舞台上に置かれているのは1台のグランドピアノのみ。床と壁の一面が鏡張りで、別の壁面に第1幕は歪んだガルニエ宮が映し出される。その舞台でたった一人「 Folie!バカなこと!」と愛を否定してみせるヴィオレッタのなんと寂しいことか。第2幕では壁面に鳩が映され、天井から白いパラソルが吊るされている。愛を知ったヴィオレッタの「自由に生きていきたい」という心象風景だろうか。
秀逸なのは第3幕で、舞台を丸い枠組みで囲い、上3分の1ほどが赤い緞帳の映像で覆われている。ヴィオレッタはベッドに見立てたピアノの上に横たわっているが、彼女の背後には紗幕がかかっていて、アンニーナも、医師グランヴィルも、ヴィオレッタ以外はその紗幕の向こう側にいる。どうにか間に合って駆けつけたアルフレードがいくらヴィオレッタを抱きしめても紗幕越し。つまりヴィオレッタは、すでに死の世界に半分足を踏み入れているのだ。最後に、ヴィオレッタが息を引き取る場面で、丸い枠組みに映し出された赤い緞帳がゆっくり降りてくるという仕かけ。
このように描き出されたヴィオレッタの「孤独」は、痛いほどリアルだ。女性がひとりで生きていこうとした時にぶつかる壁、受ける傷、叶わない希望。それはひとりヴィオレッタだけのものではなく、現代に生きる私たちの「孤独」とリンクする。ブサールは以前インタビューで「舞台に流れる時間が観客の時間と繋がることが目的だ」と語っていたが、あえて時代考証を無視した映像(ガルニエ宮は『椿姫』作曲当時にはまだ存在していない)や衣裳(女性のドレスは微妙に現代風のモードになっている)がそれに大きく貢献していた。
最後にリッカルド・フリッツァの指揮についても述べておきたい。「現代演出」とも違う、しかしリアルな人間の心情を描こうとするブサールの演出意図を実現し得たのは、フリッツァの指揮があったればこそだろう。テンポがかなり速く、人によってはアッサリした印象を受けたかもしれないが、私としてはブサール演出にはこの表現がベストだったと思う。仮にもう少したっぷりと、エスプレッシーヴォに演奏してたら、逆にヴィオレッタの心情がお芝居くさく感じられたことだろう。といって、決して無味乾燥ではない。その微妙なポイントを狙って成功していた。歌にピッタリと合わせる手腕も見事で、お手本のようなオペラ指揮である。
歌と、音楽と、ドラマと、そして美術衣裳(ドレスが本当に洗練されていた)とがピッタリと合致したプロダクション。「オペラを観る醍醐味」を存分に味わえた『椿姫』だった。
2017年11月16日、新国立劇場。
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