はじめまして。宮崎直子の自己紹介その1
シリコンバレーに住んでいます
私は現在シリコンバレー、サンフランシスコの郊外に住んでいます。
日本からシリコンバレーに移住したのは25年以上前のこと。
仕事も、家も、車もなく、僅かの貯金だけを持ってアメリカ人の元夫と共に、シリコンバレーに引っ越して来ました。
その後、22年ほどシリコンバレーのIT業界でマーケティングや営業の仕事をフルタイムでしていた、いわゆるバリキャリ女子です。この内12年間は、元夫と一緒にソフトウエアの会社を経営していました。
現在は、IT業界は卒業。
鋼の自己肯定感をつくるコーチ」として、執筆、講座、研修などを通して、みなさんにシリコンバレーで培った「一度高めたら二度と下がらない自己肯定感」の育て方を伝授しています。
ITと自己肯定感???
マーケティングとコーチ???
結びつかないですよね?
それは、これからお話ししますね。
10代のときに立てた問い
私は10代のときに立てた問いがありました。
「人はどうしたら持って生まれた才能を活かして幸せに生きることができるのか?」
私は三重県の小さな漁師町で生まれました。地元の漁港(冒頭の写真です)までは歩いて2分、全力で走ったら1分の距離に実家がありました。
私が子どもの頃、よく周りの大人に言われたんです。
「あなたのお父さん、昔はすごかったんだよ!」
と。
この小さな漁師町で生まれ育った父は、田舎の「神童」だったそうなんです。
数学も、英語も、国語も、古文も、美術も、スピーチも、何をやらせてもトップになる「神童」だったんですって。
しかも、人気があって、生徒会長を務める「憧れ」の存在だったのだそう。
ところが、私が知っている父親は、アル中でタバコをスパスパ吸い、酔っ払うといつ泣き出すか、怒鳴り出すか、あるいは暴れ出すか、食事を共にするときは、ひやひやドキドキで、いつも気持ちが落ち着くことがありませんでした。
父は、「お前なら東大に行ける!」と言われ東大を3回受験したのですが、3回とも失敗してしまいました。4回目の挑戦をしたかったそうですが、父の母はシングルマザーで後の続く弟や妹が3人もいて、4回目の挑戦は経済的に無理だったそうです。
初めての大きな失敗を父はどう受け止めていいかわからず、そこで人生を諦めてしまったようなのです。
その後、仕事も上手くいかず、私が10代のある日、泣きながら家に帰って来ました。
大の大人が、大好きな父親が泣きながら家に帰ってくるとは、10代の娘に取っては、一大事です。
父は会社を首になってしまったのです。
厳密には「肩たたき」でした。一級建築士の資格を持ち、建物の構造計算を仕事にしていたのですが、コンピュータ化の波に乗れず、会社で「戦力外通告」を受けてしまったのです。そして、あの「神童」と言われた父は、郵便物を出す部署に回されたのでした。
会社を辞めた父は、自宅で細々と塾を始めましたが、元来、「おぼっちゃま」「王子さま」気質の父は、上手く集客ができず、生徒はあまり集まりませんでした。
なんとか父を助けたいと、私は、高校生のときだったか、大学に入ってからだったかは覚えていませんが、「生徒募集」のチラシを作り、近くの学校の校門の前に立ち、生徒たちにチラシを配った記憶があります。
この体験から、私は大きな疑問を抱くことになったのです。
「数学も、英語も、国語も、古文も、美術も、スピーチも、何をやらせてもトップだった父、しかも人望もあって人気者の生徒会長だった父」その人が、どうしてこのような人生を送っているのだろう?
父はどうすればよかったんだろう?
その答え探しが、「鋼の自己肯定感をつくるコーチ」という今の私の仕事に直結しているのです。
続きは、次回に!