Flying Solo (広島編)
広島に着いたのは夜8時過ぎで、駅からは路面電車でホテルへ向かった。
チェックイン時にもらったコインが使えると言う最上階にあるラウンジに行ってみる。飲めない私は、瀬戸内の柑橘類を使ったスカッシュを頼んだらこれが超絶美味しい。
テラスに出て、夜風にあたって、夜景を眺めて、初めてひとり旅の実感が湧いてきた。風がまだ冷たいねと言う相手がいないちょっとの寂しさと、たくさんの自由。
翌日はお昼にClubhouseの友達と会う約束をしていたので、それまでは平和記念資料館へ。
20代の頃、ベルリン近郊のザクセンハウゼン強制収容所跡の追悼博物館に行ったことがある。アウシュビッツはあまりにも有名だが、ナチスが大戦中に作った強制収容所はあちこちにあり、ここもそのひとつだ。
ひどく寒く曇った日だった。
ガス室や人体実験室の跡、集められた髪の毛、歯などが詰まった部屋など、筆舌に尽くしがたい展示物や写真、映像を見て、人間というものは、戦争のような異常な状況下では、同じ人間にここまで酷いことができるのだという圧倒的な事実に打ちのめされた。
その日はその後ほとんど口をきけなかった。寒さもあってずっと震えていた。それほどショックだった。
そしてその時からずっと、私は日本人として、いつか広島や長崎を訪れて、原爆にきちんと目を向けなければと思い続けてきた。20年以上かかって、ようやく広島を訪ねることができた。
雲ひとつない青空の下、平和記念公園の慰霊塔で黙祷する。原爆ドームが向こう側に見える。毎年8月になるとテレビで見ていた光景がそこに広がる。
資料館に入り、展示をひとつひとつ見ていくと、学校で習ったこと、テレビや本、マンガでみたことが頭の中でひとつひとつ思い出され、繋がっていく。当たり前だが被爆された方々ひとりひとりに顔があり、人生があり、家族があり、未来があった。それを戦争という名の下に一瞬にして奪われたのだ。その事実ををあらためて目前に突きつけられ、言葉を失った。
全人類に訪れて欲しい場所だ。もしこれを見ても戦争を正当化する人がいたら、どうしてそんなことができるのか説明して欲しい。
泣きすぎて目は腫れているが、気を取り直して待ち合わせの広島駅へ向かった。
今回会うのは二人。ひとりは電車が大好きな男の子二人のお母さん。Clubhouseで彼女が話すトピックは、ドラマから、なぜうさぎはピンクで描かれるのか、反省とは何かなど多岐に渡っていて、実に興味深い。
何よりも、彼女のとる人との距離感が、まるで新緑のそよぎのようにさらっと風通しが良く清々しくて、私はとても好きなのだ。スパッと一本筋が通っていて、かと言って決して冷淡ではなく丁寧で穏やかなありようにいつも感嘆する。
私もそんな風にありたいといつも密かに憧れているので、どうしても実際にお会いしたかった。そんなに毎日のようにお話するわけではないので、彼女にとっては唐突なお願いだったかも知れないけれど、そんな私のわがままにも気持ちよく応えて下さり、忙しい仕事の合間を縫って出てきて下さった。
実際の彼女も、声から想像していた通り、聡明で爽やかだった。短い時間の中でも、彼女の背後にある景色をほんのちょっと垣間見ることができたおかげで、それまでぼんやりとしていた彼女の輪郭に少しだけ濃淡がついて形を成してきた。それがどんなに貴重な体験だったか、私はきっと彼女に伝えきれなかったように思う。
もうひとりは、息子さんが子供のころに自閉症と診断され、当時は頼る人も団体もなく、得られる情報も少なかったため、ご自分で勉強され、相当なご苦労と努力をされて育てて来られた。
成人された今でも、多くの定型発達のお子さんのように子供の世話ははいおしまいというわけにはいかず、彼女の力が緩むことはない。息子さんのことだけではなく、同じように自閉症の子供を持つ親御さんたちと繋がり助け合うコミュニティを作られたり、勉強会を開かれたりという活動されてもいる。
その小さな体のどこからそんな力が出てくるのかと驚くほどエネルギッシュで、瞬発力も持久力も備わっている。
彼女の愛情はもちろん息子さんへ向いているのだけれど、お話を伺っていると、いまやその域をとっくに超えて、すべての人間に向けられていると言っていい。
世界がかき集められるだけの敬意と賞賛を全部合わせて彼女に贈られればどんなにいいだろう。
原爆の惨禍から立ち上がり、緑溢れる今の街並みまで復興してきた広島で、タイプは違うけれど、まるでこの街の力強さやしなやかさを体現したような彼女たちに会えたことで、私の中にあったぼんやりとした平和の灯がともった。その小さくても確固たる灯に手をかざして、あの時ドイツで感じた震えがようやく少し収まった気がした。
(続く)