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Tandem Ride

「未亡人になったらパリスに住むんだ」。

父がまだ健在だった頃から母は言い続けていた。そのたびに父ちゃんまだ元気なんだからそんなこと大声で言いなさんなと娘たちは白目になっていた。

パリがニューヨークになることもあったけど、住むのはともかくとして、とにかくずっとパリにはひとりで行きたいと言っていた。そう、ひとりで。

父が亡くなって、長年先延ばしにしていた人工関節の手術も受け、積極的にリハビリを受け、今年4月、ついに秋にパリ行きを決めたと母から連絡が来た。

ひとりで行くと。わかる。わかるよ。ひとり旅は気楽で楽しい。私だってひとり旅大好き。でも世間ではあなた、後期高齢者なんですよ。人工関節も入れてるし、重い荷物持てるの?

ようやく念願のパリに行けてよかったね、と思う反面、大丈夫かなと急に不安になる。

いや、きっと色々だめだよね。ラジオのフランス語講座を毎朝欠かさず半分寝ぼけながら聞いていても、私の友達のお母さんからフランス語を習っていた時期があっても、やっぱり色々だめだよねえ!

いや、でもひとりで行っても、多分何とかするだろう。わけわからない状況でも何とかすり抜けてしまう。母はそういう人だ。

それに、「未亡人になったら」「ひとりで」というキーワードは、誰にも気兼ねすることなく自由に旅したい、ということを示している。邪魔されたくねえ。そういう人なのだ。

どうしたらいいんだろう。髪が抜けるほど悩む。心配至極。でも母の自立心は尊重したい。

オットが見かねて付いていったら?と言う。そしたら自分も安心だと。わかる。でもね、ひとりで行かせてあげたいという気持ちも捨てられないんだよ。だってずっとそうしたかったんだから。

何ヶ月もその気持ちを引きずっていた。そうしているうちに、そろそろ出発の1ヶ月前になろうとしていた。ようやく思い切って母に聞いてみることにした。やっぱりひとりがいいと言えば、諦めよう。

慎重に言葉を選ぶ。おへそを曲げられちゃ困るし。

「何がなんでもひとりじゃなきゃだめってわけじゃない」と返事が返ってきた。要するに、来たいなら別にいいけど、と言うことだ。

ならば、ということで休みを取って同行することになった。私はバンクーバーから、母は羽田からやって来て、パリで会いましょうと。

行きたいところをあらかじめリストアップしてもらい、私が行程を決めた。ルーブルとオルセー美術館以外は、ほとんど母が読んだ本や観た映画の舞台で、普通のツアーで行ったら寄らないような所ばかりだ。

そういう所にこそ行きたいものだ。私の友達だって、ニューヨークで行きたいところと言えば、漫画「バナナフィッシュ」に出てきたNY市立図書館だったし、祖父だって、映画「アンタッチャブル」の舞台となったシカゴのユニオン駅の階段を見て大興奮だった。

同じように、母はメグレ警視シリーズに出てくるサンマルタン運河や、オルフェーヴル河岸、映画「ジャッカルの日」の舞台となったアンヴァリッド、アポリネールがマリー・ローランサンとの恋の終わりを綴った詩にあるミラボー橋などに、どうしても行きたかったのだ。

オペラ座の中も見てみたいし、ルーブルとオルセー美術館には、見たいものだけを見に行きたいと言う。ならばとことん付き合おうじゃないか。

しかし、私が前回パリに行ったのはもう何十年も前のこと。まだガイドブックや地図を片手に動き回っていた、遠い昔のインターネット先史時代の話だ。

パリに留学していた友達を訪ね、大学のゼミの友達と一緒に、卒業旅行を兼ねての旅だった。カタコトのフランス語で道を訊ねたり、硬貨がわけわからなくて、お店の人にお財布をガバッと開いて必要なだけ取ってもらったり、今考えると牧歌的だった。フランス人は冷たいよ、と聞かされていたけれど、会う人誰もに親切にしてもらった。

泊まったプチホテルの朝食のクロワッサンとカフェオレが、この世のものとは思えないほど美味しかったこと、友達がホームステイしていた、17区の瀟酒なアパルトマンにディナーに呼んでもらったこと、その時手土産にギャラリーラファイエットで買ったスイーツを持って行ったらママンに褒められたことぐらいしか記憶にない。全部食べ物のことだ。

ルーブルも凱旋門もシャンゼリゼもエッフェル塔もベルサイユ宮殿も行ったけど、どうやって行ったのかはちっとも覚えてない。というわけで、私はインターネットの荒波に飲み込まれていくのだった。

行きたいところを地図に入力すれば、たちどころに行き方や料金、所要時間などがわかってしまうし、行きたい場所の予約も支払いも事前に簡単にできる。行く先にあるレストランを調べ、メニューを見ることもできる。しかも、大抵英語でも表示される。

おそろしく便利な世の中である。歩きスマホをする人たちを小馬鹿にしていた母ですら、その便利さに感心して、これからはそう言う人たちを生暖かい目で見ると言い出す。けれど、あの牧歌的で無駄の多い、いい意味でのゆるさは失われてしまった。

それにひとつ情報を見れば、関連したことが次々と勝手に流れてくる。パリではスリにご注意という記事を見ただけで、スマホの画面はスリ情報で溢れ、たちまちパリはスリしか住んでいない、修羅の街として私の脳に焼き付けられてしまう。怖い。中世のお城の廊下に飾ってあるような、鎧を着て防御したい。だけどそんな格好でカフェにいる母娘などカオスでしかない。怖い。

怖がりすぎて疲れ果て、もう金ならいくらでも盗ってゆくがよい、スリの民たちよという気持ちになった頃、いよいよ出発となった。

結果、ひとつもすられることはなかったし、今回もまた会う人誰もに親切にしてもらった。

行きたいところをひとつずつ訪ね、食べたい物を食べて、メトロに乗ったり、左岸を歩いたりしながら、時折石畳の上で手を取らなければ危なっかしい様子や、夕食の前に少しホテルの部屋で休んで体力を回復する様子を見るにつけ、ああ母も年を取ったなと思う。

これほんとにひとりでやるつもりだったの?と聞くと、まあこんなに効率よく全部見られなかったかも知れないけど、どうにかしたと思うよと笑う。

お金も時間もかけて、パリまで行って、見たかったものが見られなかったとしたら、そんなに残念なことはない。それでもできることをして、見られるものだけを見て、きっとああ楽しかったと帰って来たことだろう。そういう人なのだ。

来てもらって助かったよ、と旅の終わりに言っていた。自分が思うよりずっと色々なことができなくなっていると感じたのだろう。自覚してくれていい反面、ちょっと寂しさもある。

私が年をとって、今までできたことができなくなった時、母のようにまあしょうがないやね、と笑ってポイっと手放せるのだろうか。

確かに同行してよかったと思う。それでも、ひとり旅だったら経験したかも知れない冒険や、人との交流、味わい深い思い出を、私は母から永遠に奪ってしまった、という気持ちもある。

旅に対する考え方は、価値観や生き方に通ずる。自立と自由は相即不離。母から自立なくして自由は得られずと骨の髄まで叩き込まれて育ってきた私は、何かを犠牲にしてでも得たい自由があることを知っている。

だから、母のパリ旅行が私の同行によって形を変えてしまって、たとえそれが結果的に良かったとしても、私はどうしても母の自由と自立の領域に土足で入り込んでしまったような気持ちが抜けない。

心配と信頼の境。妹が高校を卒業してすぐにアメリカに渡った時、母はそれをどうやって飛び越えたんだろう。運河沿いを歩いてレストランに行くまでの間に聞いてみると、心配じゃなかったね、何かあっても自分で何とかするだろうと思ってたし、それができなきゃ行く資格はないと思ってた、とあっさり言う。

そんなに大事な自立と自由を、私は後生大事にぎゅうっと握りしめているというのに、母ときたら、この年になってできないことはしょうがないね、とポイっと手放す。その潔さはもう見事としか言いようがない。

母のパリ旅行の先導をした気でいるが、そうじゃないぞ、私などはまだまだ修行が足りないと、結果的には思い知らされた旅だった。まだまだ操縦席は譲ってもらえなさそうである。


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