Flying Solo (渋谷 後編)
(前編の続き)
その後も帰国している間、何度か渋谷に行くことがあったが、何度行っても新しい渋谷に慣れることはなかった。
それにしても渋谷という街には大きな本屋がない。いや、あるんだろうけど、以前あったところはことごとくなくなっている。
あてもなく本屋を覗いて、今はどんな本が売れてるんだろうとぶらぶら見て回るのが、私はこの上なく好きなのだが、これはオットと一緒の時にはできない。
もちろん文句も言わずに付き合ってくれるだろう。だけど日本語がわからないオットにとって、それは一体何の時間なんだろうと思わないはずがない。
私だってそんなオットを連れて、ゆっくり平積みの本を手に取って、パラパラと読んだりできるわけがなく、結局そんなどちらも幸せにならないことをする気にはとうていなれない。
今回は心置きなくできるぞ!と息巻いていたが、思いのほか大きな書店が見つからない。
みんな密林で買って家に届けてもらうのかなあ。読みたい本が決まっている時はとても便利だけど、何が読みたいかわからないときは、みんなどうするんだろう。本に呼ばれる、という感覚はどこで得るんだろうか。
気づいたら滞在中の予定がキッチキチのギッチギチに入ってしまっていた。ところが、思いがけずぽこっと時間が空いたので映画を観ることにした。
これまたClubhouseで知り合った、これまた気持ちのいい素敵なお姉さんが、「モリコーネ 映画が恋した音楽家」を観たと言っていて、これは間に合うなら絶対観たい!と思っていたのだ。
エンニオ・モリコーネと言えば、祖父が大好きだったマカロニウエスタンから、私が十代の頃夢中になった数々のギャング映画、不朽の名作「ニュー・シネマ・パラダイス」まで、多くの映画音楽を製作してきた神様だ。その人のドキュメンタリーなんて、観ないわけにいかない。
頭の中に音楽と映画のシーンが次々と蘇る。アンディ・ガルシアにしびれたシカゴのユニオンステーションでの銃撃戦。シチリアの古い映画館ではトトがアルフレードと笑ってる。ああもう涙が出そう。
しかも、もうすぐ移転してしまう東急文化村のル・シネマでやっているというから、もうこれは何としてでも行くしかない。
旅行中にわざわざ映画を観ようなんて、オットが一緒なら考えない。付き合ってくれるだろうが、もっと日本ならではのことがしたいと思うはずで。
映画はもちろん、映画館そのものにも思い入れがある私とは圧倒的に熱量が違うのだ。
誰にも遠慮せず、ゆっくりその時間を堪能できる。これもひとり旅の醍醐味だ。
文化村も若い頃よく行った。中にあるドゥマゴパリ (Les Deux Magots Paris) というカフェでも友達とよく待ち合わせた。
久しぶりにタルト・タタンが食べたくなり、時間より早めに行ってお茶を飲むことにした。
店は思いのほか混んでいて、しばらく待たされた挙句、お目当てのタルト・タタンは売り切れてしまっていた。
それでもゆっくりとひとりカフェオレを味わいながら、心があちこちに飛んでいくのを眺めていた。
スクランブル交差点を渡るのが前よりも下手になっている気がするし、目的地にはだいたい真っ直ぐたどり着けない。
好きだった小さな映画館や路地裏の喫茶店は消えて行き、本屋さんも見つけられない。
あの頃とはもう違う街並みを少し寂しく思いながら、思い出のかけらがまだあちこちに散らばっていることに救われもする。
うっかり間違えて地下に潜ってしまい、ダンジョンに飲み込まれないよう、一目散に地上に逃げた。
変わりゆく渋谷の街で、私はゆっくりと自分を取り戻していった。
渋谷にはたしかに魔物がいる。でももうこわくはない。
(続く)