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魂の声を聞く時、失敗することはない。
共通テストが開催されたというニュースを観て、私は私の物語を思い出すことになった。
私が大学を受験したのは、今からもう14年も前のことになる。その日、私は第一志望の大学に赴き、試験を受けていた。その学校に私が入ることをほとんど誰も信じていなかった。予備校のチューターにも「あなたの偏差値ではそこに入ることができない。もっと現実を見て、自分の実力に見合った学校を受けなさい」と指導されていた。でも、私はそのチューターの言うことを聞かなかった。学校の担任にも同じような忠告を受けていたが、やはり、私は言うこと聞かなかった。そして、赤本を何度も何度もしつこく勉強し、研究していた。
私には根拠のない自信のようなものがあった。
だから、他の大学に入るための対策をしていなかった。「すべり止め」という考え方も理解できなかった。私はその大学の学科にピンポイントで入る必要があったのだ。
当時、センター試験と呼ばれていた試験も失敗に終わり、両親は暗い顔をしていたが、私立なんだから、センター試験なんて関係ない、と思っていた。
そして、試験当日になった。もう14年も前のことになるのだけれど、つい昨日のことのように、その時のことを思い出すことができる。それは古文の試験時間だった。私は緊張するべきはずなのに、なぜか落ち着いてたのだ。そして、机の上に置かれた答案用紙が白く光って浮かび上がっているように感じ、理由のない安心感に包まれていた。そして、スラスラと答えを書くことができたのだ。
そして、回答を終えた後、静かな確信があった。それは「知っている」という感覚だった。自分の未来が現在に食い込んでくる、という感覚だった。
「自分の人生の筋書きを確かに知っている」
「自分は正しい場所にいる」
という優しく、確かな感覚だった。言い換えると、「自分はこの場所でこれから四年間過ごしてゆく」ということを遠い昔から「知っている」という感覚だった。
〇
親戚たちは私が就職しない、と言った時、「何のために大学に入ったの?」と説教して、何とか会社に入社させようとした。私が大学に入ったのは、会社に就職するためではなく、ブループリント(魂の青写真)を成就させるためだった。
周りの人間は就職に有利だから、と言う理由や、偏差値が高いから、という理由で大学に進んで、大手だからという理由で就職先を選んでいた。
誰も魂のことについて話していなかった。魂は死んだものになっていた。
「これでもう、食いっぱぐれることはなくなったぜ」
と誰もが知っている大企業に内定していた友人が話しているのを聞いて、みんな安心とか将来の確証みたいなものを欲しがっているんだな、と気づいた。
でも、私のハートは大企業の名前とか、何歳で年収が一千万円を超えるとかの情報にまったく反応しなかった。
そこはカトリック系の大学で、世界中の絶版になった聖典や教典、瞑想やヨガの秘教的な教本が揃っていた。私の魂はそのスピリチュアルな校風に憧憬を抱いていて、それに知らず知らずのうちに引き寄せられたのだと思う。
私はもう20代前半の段階で世俗的な事柄に興味を失っていたのだ。
会社に入らないと両親に伝えた時も、
「自分の人生の筋書きを確かに知っている」
「自分は正しい場所にいる」
という感覚はずっとあった。
だから、母親や伯母が「いい加減にしなさい!そんなことじゃ、将来が大変なことになってしまうのよ!いったい結婚はどうするの?」とヒストリーを起こしていた時も、
「どうしてそんなに不安がっているのだろう?」と思っていた。同級生も両親もみんなサバイバルの恐怖に囚われていた。
〇
「自分の人生の筋書きを確かに知っている」
という感覚が確かなものとなりつつあるのは、それから約10年後の今、「教えてほしい」という人たちから連絡を受け始めたことだ。
今、導かれるようにして、瞑想の指導をしている。
14年前、古典の答案用紙が神々しく輝いていたあの日の天啓の感覚は一生、忘れることはないと思う。
私はあの時の優しい感覚を思い出すたびに自分が神としか言いようのない〈無条件の愛の存在〉から世話をされているということを確認する。
〇
最近、私は瞑想の誘導をする時に、「ハートに明け渡し、信頼して」と言う。
思考は絶えず、不安や恐怖に苛まれて、自分の人生が大変なことになってしまう、とおびえている。
私は、それが幻想である、ということを知らせる役目を担っている。
私は、あなたは神から世話をされている、ということを知らせる役目を担っている。
〇
満足に髭も生えていなかった少年の頃から、今に至る14年の間、私は確かに、自分の意志を越えた大いなる何かに導かれている、という感覚をしっかりとこの手に掴んでいる。
それは世間一般の常識を超えた魂の道であり、ハートに対するつよい信頼、信仰とも言える半生だった。
私は一度たりとも頭(マインド)で人生の選択をしてこなかった、という自負がある。
私はずっとハートだけを頼りに生きてきたのだ。
ハートを頼りに生き始める時、人生はスピリチュアルなものになる。
〇
18歳の頃、所属していたミュージカル団体で知り合ったひとりの男性がいる。彼はこう話していた。
「ダンスでは食べていけないって言われるけど、僕はそう思わないんだ。高校生の頃だって、みんなが勉強している間もずっとストレッチをして、舞台に立つ準備をしていたんだ。だから……」
その男性は10数年を経て、今、日本で一番大きい劇団の舞台に立ち、歌い、踊って喝采を浴びている。
この10数年の間、何回、彼は自分を疑っただろうか?
ブループリントに沿って生きる、ということは、孤独な人生を生きる、ということだ。本当の意味でスピリチュアルに生きる時、その人が信頼できるのは、自分のハートの直観だけだ。
彼は10代の頃から、本当に覚悟を持っていたのだと思う。絶対に歌と踊りで生きてゆく、という強い信念だ。
魂を生きるという覚悟の中で宇宙は、その人に手を差し伸べ、世話をする。
まるで、宇宙が自分のために動いているのではないか?と感じるほどに──。
なぜなら、個人の魂の延長線上には、究極的に神(全体)にたどりつくのであって、魂の声を聞く時、失敗する、ということがあり得ないのだと思う。
〇
もし、私がブループリント以外の道を常識や周りに合わせて、選択すれば、私は何度も転生してくるだろう。
だから、私は自分の人生を魂として、生きるのであって、私は神(大いなる存在)が自分にさせようとしていることを素直に表現するだけなのだ。
人生を神に明け渡すということは、それほど簡単なことではない。
マインドはサバイバルの恐怖におびえ、一生を終えてしまう。学生の頃、仲良くしていた友人たちはみんな魂を売った。そして、私はひとりになった。
〇
この10年間、なぜか、苦しくなると、必ず、誰かが現れて、私を助けてくれた。手を差し伸べて、導いてくれた。
何度でも以下のことを書きたい。
「自分の人生を振り返った時、ずっと愛されて、導かれてきた、という実感をどうしてもぬぐい去ることができない」、ということを──。
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今週のサットサンは26日(日)の13時からです。
(毎週、土曜日に開催していますが、今回は日曜日の開催です!)
zoomにて無料。マイクとカメラはオフで構いません。
参加を希望される方はこちら↓まで。
naokifloweroftheheart@gmail.com