これで良かったんだ、と思えた。
先日、いっしょに瞑想していた方から、
「あなたが沈黙している時、こちらも静寂になって、心が穏やかになるんです」
と言って頂いた。
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何をやっても上手くいかずに、自分は見放されている、と嘆いていた20代の10年間も、「魂の計画」は着々と進行していたのだ。
自我は何も知らされず、ただ、焦りだけが募っていた。社会に出て活躍している同級生を見て、後悔が募っていた。
いったい、何度自分の人生を悔やんだろうか?
10年ほど前、友人たちが大学を卒業して、社会人になろうとしていた時──。
強烈な孤独感の中にいた。
卒業式のパーティーにも出席しなかった。もうその時点で僕の人生は自分の意志とはちがう大きな力に引っ張られるように、内側に向いていた。
僕は逃げるように、大学に隣接していた教会の椅子に座って、ひとりで瞑想していた。
大学生の頃、いっしょに遊んでいた友人が高給をもらって、結婚し、家族を持っているのを知れば、やはり後悔が浮かぶ。
今世、僕は普通の意味における家族を持つことはないだろう。
それでも僕は今、スピリチュアルな意味における「母親」と「父親」、「兄弟姉妹」と出会っている。
〇
「あなたが沈黙している時、こちらも静寂になって、心が穏やかになるんです」
と言われた時、自分の運命を自覚した。
そして、これで良かったんだ、と思った。
自分の人生と運命を肯定できた。
自分に与えられたものが、既存の社会にとって必要な枠組みから外れていることを自覚している。
社会の中においては、沈黙に価値はない。
でも、沈黙を求めている人たちがいる。
そのような孤独な魂の避難所になることができればと思って、サットサンを開催している。
もし、明け渡して、人生がダメになるのであれば、それでいいのだ。
人生を完全に信頼すること。
将来の恐怖や不安が起こるたびに、まず気づいて、深呼吸する。
数か月前から、自分が一度たりとも、見放されていなかったという感動の涙にたびたび襲われるようになった。
その涙は全てが満ち足りていて、内側からあふれ出す光に圧倒されるような感謝の体験だ。
たとえ、人生を見失ったように見えたとしても、信じられないほどの愛で〈存在〉から気遣われてきた、ということ。
その絶対的な愛を前にすると、僕は安心して、すべてを明け渡すことができる。
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明日の13時からサットサンを開催します。
入退出自由。カメラとマイクはオフで構いません。zoomにて無料。
参加希望される方はこちらまで↓
naokifloweroftheheart@gmail.com