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徳がなければ悟ることはない。
僕は対話をしていたその男性に「徳を積んでください」と言った。
その男性は「徳を積むって何ですか?」と返答されたので、「他人に与えることです」と答えた。
でも、その男性は「ひとに親切にしたって、仇で返されてばかりだ」と嘆いていた。
僕はそのひとの無意識の層が見える。言い換えると、その人が「徳」のある人間かどうか、ということが話しているだけで分かる。
相手の態度や、表情からだけではなく、メールをもらう時点でその人がどんな人か分かる。その人が、与えるタイプの人か、奪うタイプの人か、ということが手に取るように分かる。
「徳」のある人は大抵、感謝の言葉を述べる。ありがとうございます。という文章からメールをスタートさせる。
でも「徳」のない人は、自分が〇〇のことで困っていて、情報を欲しいので、それをください、という一方的なメールだ。
僕はもちろん返信するのだけれど、やがて、気力が奪われてゆき、関わりたくない、と思ってしまう。
逆に愛を感じられる人には、お金なんてもらわなくても良いから、このひとが助かってほしい、と思い、やり取りをする。こちらも疲れない。
その男性は「実は、いつも他人と対立ばかりしている」と話された。それは最初から分かっていたことだった。赤の他人であれば、そのままにもできる。
でも、僕は心を鬼にして、軽い説教のようなことをした。おそらくこの活動を開始して以来初めてのことだった。僕はその方の運命を転換させなくてはいけなかった。
その方は「悟りたい。真我を実現したい」という強い欲求を持っていた。そのために恩寵が必要なんです、ということすら言っていた。
僕に連絡してくれる方々は僕のnoteを読んでいる。だから、恩寵に必要なことが「与えること」、つまり、奉仕や献身だということを知っているはずだ。
でも、自我は、耳の痛いところはスルーする癖がある。そして、テクニックばかり得ようとして、心を省みない。自分が他人と対立し、奪う傾向があるのなら、それと向き合わなければならない。
瞑想行やヨガ行をしていれば、「徳」がいかに大事がということが分かる。
大体、真我を実現することは「神」になるということだ。あなたが、キリストやブッダと肩を並べるということだ。あなたが聖者になるということだ。
彼らは、人類史上圧倒的に「徳」があった人間だ。「親切にしても、他人は仇で返してくる」などと文句を言うような次元にはいない。
彼らの人生を振り返ると、ほとんど他者のためにしか生きていない。自我のためには生きていないのだ。
僕は嫌われることを覚悟して、
「あなたは自我の殻に閉じこもっている」
と言った。自我というのは、自分を守ろうとする。ぎゅーと固く自分のことを閉ざして、自分が正しい、自分が救われたい、自分がいかに得をするか、ということばかり考えている。そのような人間には恩寵は降りそそがない。
僕自身のことになるけれど、20代の半ば頃から探求を始めた時、ヨガにしろ、瞑想にしろ、「できない」ということがなかった。
ぜんぶ、できる、という感覚だった。
それは前世であらかじめ努力して、修行をしていたからということもある。
でも、それだけではない。
それは何故か?というと「徳」が貯まっていたからだと思う。
僕はセッションをしている。二時間対話して、瞑想を伝授して、1万円をドネーションしてくれるひともいれば、1000円のひともいる。あるいは、料金を払えないひともいる。
普通の人間であれば、1000円では割に合わない、と思う。9000円もらわなくちゃ、と思うと思う。
でも、僕は、9000円分の「お金」ではなく「徳」をもらっているのだ。
僕はあまり自分の善行を話したくはないけれど、10代の頃から、コツコツと「徳」を貯めてきた。
寄付もしたし、福祉活動もした。奉仕と名のつくことのほとんどを通過した。
普通の人には「徳」というのは実感をしずらい。
でも、それはエネルギーとして体験できる。
僕は自分が損をするようなとき──他者に奉仕をする時、自分の中の気の通り道(ヨガでは「ナディ」と呼ばれるエネルギーの通り道がある)が綺麗に浄化される、という感覚がしっかりと起こる。
そして、心の綺麗な状態で、いざ、瞑想や呼吸法をする時、事前に「徳」によって浄化された気の通り道をエネルギーが上昇する。
第一チャクラから、第七チャクラまでエネルギーが流れるようになり、最終的に頭頂にある最上位のチャクラが開くと、恩寵がそのひとに流入してくるようになる。
去年から、色々なひとたちと対話してきて思うのは、「与える」ひとから順番に悟る、ということだ。
「与える」ひとには徳がある。
そのひとはすでにアドバンテージを持っている。
つまり、慈悲心の無い人が悟る、ということはあり得ないということだ。
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今週のサットサンは8日(土)の13時からです。
入退出自由。カメラとマイクはオフで構いません。zoomにて無料。
参加希望される方はこちらまで↓
naokifloweroftheheart@gmail.com