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たとえ海を隔てていても、意識は共鳴する。

昨日、本年最後のサットサンを開催した。簡単な瞑想をした後、自分を含めた13名は最後まで沈黙していた。

サットサンを始めて3ヶ月以上経つが、誰も何も話さなかったのは始めてだった。

サットサンの後、ひとりの女性からメールを頂いた。

Naokiさん こんにちは。

サットサン、参加させていただきありがとうございました。

不思議な時間だな、というのと同時に「この人たちは私に何も期待しないのだ」と思ったら、震えて涙が溢れました。

眠りに落ちる少し前の微睡みのような、心地良い時間を最後までありがとうございました。

また、参加させていただきたいです。

僕は参加される方々に何も期待していない。

参加された方々に、何かのサービスに登録させたり、ビジネスへ誘導することもしていない。サットサンが、お金にならないことも分かっている。

確かに、参加者で、熱心に悟り(探求)についてメールして来られる方には「セッションを受けてみてください。」と返信することもある。

でも、今まで、そのような勧誘をしたのは、わずかに三人だけだ。

サットサンに参加されたことがある方は分かると思うけれど、去る者は追わず来る者は拒まず、で参加された方々にはその後、こちらから何の連絡もしていない。

だが、さきほど書いたように、「この方は本気で目覚めたいのだな」と僕が判断した場合だけ、セッションを受けてもらうようにする。

だが、本気で目覚めたいひとは稀だ。

この現象の世界を越えたい、理由のない無条件の至福の境地を味わいたい、と思っているひとは少ない。

多くの方々は、サットサンに「悟りたい」という理由で、参加されるわけではないと知った。

静寂を味わいたいとか、浄化される感じがするので参加したい、という理由だ。僕はそれでいいと思っている。

なぜなら、サットサンを開催しはじめた時、ただそこにいるだけで「ゆるされている」と感じられる空間をつくりたい、という動機があったからだ。

日常から瞑想をする習慣がある方々、気づきに気づいている方々、第六チャクラが活性化している方々はサットサンで静かにしていられると思う。

でも、そうでない方々には、前々回のサットサンから、僕の目を見つめてもらうことにした。そうすると、意識を伝達しやすいと分かった。

瞑想の習慣がなく、思考にすぐ巻き込まれる方はどこかに集中する必要があるのだけれど、手っ取り早く、気づきそれ自体に気づいている僕の目を見つめてもらうことで、沈黙に入ってもらうようにした。

サットサンの間、僕は思考がほとんど湧いてこないために、言葉を発することができない。

そして、突然、理由のない愛の感覚が溢れてきたりする。昨日もそれが起こった。

そして、さきほどの感想をくれた女性がサットサンの間にそう感じたように、ゆるされている無条件の愛の感覚が共鳴し、浄化を引き起こす。

では、なぜ、その方は初めてのサットサンでそのような共鳴ができたのだろうか?

それはハートがひらいていたからだ。

もし、そのひとのハートがひらいている場合、どこにいようが、海を隔てていようが、恩寵がその人に入り込んで、ダイレクトに浄化してゆく。

海を隔てたメキシコから参加してくれる女性がいる。そして、間違いなく、意識はそこまで共鳴している。

僕は誰のことも癒そうとしていないし、そのような欲望もない。

でも、なぜ、メキシコにいるひとに意識を共鳴させることができるのか?

それは僕が、気づきそれ自体に気づいている、という理由に加えて、捨て去ったからだろう、と思う。

お金を稼ごうとか、地位を得たいとか、そういう自我意識が残っている限り、海を隔てたところにいるひとの意識と通じることはできない。

捨て去れば、捨て去るほど、神(真我)に目覚めてゆく。

なおきさま

今日のサットサンにもぜひ参加をさせていただけますと嬉しいです。

先々週のサットサンでは、普段なかなか感じることのできない静かな時間を過ごすことができました。

昨日まで、メキシコ国内の道路も舗装されていない山奥の村に滞在していました。とてつもない自然の中にいると、先々週参加したサットサンに参加した時の自分の感覚が少し似ているような気がしていました。

ぎりぎりのお申込みですが、
可能であれば参加させてください。
よろしくお願いします。


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