与えるひとに恩寵は降りそそぐ。
対話会や個人セッションなどをしていると、長年、治らなかった不調が、心のあり方を変えたら良くなったという話を聞く。
僕も喘息や過換気などで息苦しくなることが多い人生だったが、その大きな要因は恐怖と不安(つまり、緊張)だったんだ、と知った。
緊張している状態がつづくと、首や肩、そして胸が収縮して、息苦しくなる。
昨日、お話をした女性が慢性痛を整体に通って治そうとしていたけれど、そもそも頑張って働くこと自体をやめたら治った、という話を聞いた。
後、以前書いたけれど、五十肩で悩まされていた女性がやはり、肩の痛みを整体に行って治してもらおうとしたが、良くならなかった。
そこで、内観したところ、恐れや不安が緊張をつくりだしていることに気づいて、動かせるようになった話も聞いた。
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ヨガの世界ではナーディーと呼ばれる目に見えない経路があり、そこが汚れると病気が生じると言われている。
それを浄化するために、アーサナ(ポーズ)やプラーナヤーマ(呼吸法)をするのだけれど、今日書きたいのは心のあり方について。
(体調が悪い場合、ちゃんと医療機関を受診して下さい。この記事では病気のスピリチュアルな側面について書いています)
嫉妬心、怒り、不安や恐怖という精神の混乱はナーディを汚染し、身体のどこかの部位に悪影響を及ぼす。
インドの聖典には「純粋な善意から起こる行為が治療法になる」と書かれている。
以前から僕はこのブログで祖母のエピソードを紹介しているが今日も書く。
祖母の家系は身体的に恵まれない方々が多く、戦時中という時代柄もあったのだろうが、彼女の両親やきょうだいは早く生を終えている。
祖母は整体(ヒーリング)や福祉活動をしていたこともあって、人の話を聞く人生だった。
身内がいない者──いても話を聞いてもらえない人々の話を聞いたりして、苦悩のうちにある人々のために時間を割いていたように思う。
そうした人助けをした後、身体が弱いので、しょっちゅう寝込んでいるのだけれど、90近い今も元気に生きて、ひとりで買い物に行ったり、大リーグのドジャースの試合を観て、選手の名前と背番号を暗記している。誕生日には子供と孫からプレゼントをもらう。
〇
僕は他者を助けるために自分を犠牲にするということを勧めたいわけではない。
自分が自然にやってしまうこと。ハートから満ち溢れてしまうことをする。
たとえば、僕が今やっていること──文章を書き、対話し、瞑想を伝えることでお金稼ぎをしているわけではない。
確かに、心ある方から、お布施のような形でお金を頂くこともあるが、お金を頂く場合でも、その方にとって、無理のない範囲でもらうことにしている。
お金は必要以上にもらいすぎると自分の「徳のメーター」が減少する。
世間は「お金」で頭がいっぱいで「徳」のことがおざなりになっている。
お金も大事だが、最終的に何事かが起こった時、救ってくれるのは、良きカルマ(徳)を要因とする恩寵だと思う。
普段、サットサンをひらき、対話したり、瞑想したりすることで、ナーディーを神聖なエネルギー、光そのものであるエネルギーが循環してゆく感じがする。
ナーディーというか、それすらも超えて、全身の細胞──さらに言うと原子までが、歓喜している状態になる。
この時、僕は元気と陽気さに満ち溢れている。
昨日、セッションした女性がいっしょに瞑想やワークをした後、「何だか身体が温かくなって、細胞が生き生きしてきました!」と言っていた。
本当の意味で自他が生き生きすることをしていると、思いがけずお金がやってきたりする。
言葉ではなく、体感として恩寵を生きるようになる。
〇
前述してきたことと矛盾するようだけれど、
世間的には「良いひとは早く亡くなって、自分勝手で自己中心的なひとは長生きする」と言われている。
最近、父の知り合いの男性が50代半ばで亡くなった。
僕も何度も会ったことがあり、親切で心優しいひとだった。葬式にはたくさんのひとが集まった。
そこで「良い人は早く亡くなってしまうんだね」と言う声があったという。
「良いひとは早く亡くなって、自分勝手で自己中心的なひとは長生きする」という言説について思う事がある。
実家の福祉活動に携わってきたこともあり、老齢の方々と接する機会が多くあった。
そして、息子のお嫁さんや身内の悪口ばかり言っていて、元気なひとはやはりいる。
でも、孤独なのだ。
まず、ガミガミ言われ、攻撃されている息子のお嫁さんが離れる。ついでに、息子も離れる、と言った状況になってしまう。
他人を攻撃することによってストレスを解消し、孤独になるのか。
それとも父の友人のように、長生きはしなかったけれど、大勢のひとに囲まれて惜しまれてゆくのか。どちらが幸福なのかだろうか?
結論、僕は何も分からない。
〇
福祉活動で出会った祖母と同世代の女性がいる。
そのひとは一切他人の悪口を言わず、いつもニコニコしている。
彼女はいつも僕と顔を合わせるたびに、「なおき君、いつもありがとう。幸せになってね」と言ってくれる。
そのひとと会うたびに僕の心は洗われる。
今思うのは──
自分だけを幸せにしようとすることには限界がある、ということだ。
幸せな人とは、長く生きているとか、健康を保つということを越えている。
畢竟、幸せというのは、与えることにより、他者に喜ばれることなのだろうと思う。
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