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何もしないで静かにしている。

この前、家族の付き添いで病院にいた。待ち時間が二時間あった。それまでの僕であれば、本を読むか、スマホで時間を潰すかしていたのだけれど、

その日、僕は「何もしない」という選択肢を選んだ。

文字通り、なーんにもしなかった。

何もしないことはある意味で瞑想よりも難しい。瞑想は集中する対象がある。それは丹田であったり、どこかのチャクラであったり……。あるいはマントラを唱えることだってできる。それもやはり、一種の集中だ。

気づきの瞑想も、「気づこう」という意図がある。

だから瞑想は何もしないことではない。

何もしないことは退屈なのだ。

特定のチャクラに瞑想していると、そこの部分があたたかくなったり、冷たくなったりする。マントラであれば、その音と一体化することができる。

でも、何度も言うように、何にもしないことは、難しい。

最初は退屈で仕方ないから。

でも、そのうち、変容が起こる。

ただ静かにしていると、まるで、放置されたアイスクリームが容器のなかに溶けてゆくように、心は力を失い、ハートという源泉に吸い込まれてゆく。

心がハートにとどまっている時、世界が幻想のように見え始める。

内側にある静寂だけが実在で、外側に映る風景は、仮初の夢のように感じる。

そして、何が起こっても大丈夫、という感覚がある。

やがて、内なる音楽が満ち始める。それはある種の甘味がある。

僕はそれを誰にも知られることなく、しっかりと味わっていた。もちろん、無料で。

クリニックの天井に設置されたスピーカーから、聞き慣れないクラシック音楽が流れていたが、その音楽は静寂を破ることなく、ただただ無害だった。

目の前では、看護師や患者たちが慌ただしく行き交っていたけれど、内側の安らぎはおびやかされることはない。

心がハートに落ち着いている時、時間の感覚がなくなる。僕は二時間待っていたのだけれど、三時間待つことだってできた。

それだけの時間があれば、色々な作業ができたはずだ。でも、僕は何度も言うように、

なーんにもやらなかったのだ。

その帰り道、僕はこんなふうに思ったものだ。

「情報はそんなに必要ない」と。

今この瞬間に満ち足りているのであれば、あれこれと計画を立てる必要もない。

今満ち足りていれば、その次のことを考える必要はない。

なぜなら、今しかないから。

今が永遠に続いているのである。未来は頭(マインド)の中にしか存在していない。

今ここにただ在る時、心はハートという源泉に静かに安らいでいる。

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先週、「自由に何でもしゃべる会」を開催したら、手ごたえがありましたので、今週も開催します。

参加者からの質問に答えたり、静かな時間を共有したりします。

「普段、僕が書いていることが理解できない」という質問や、

「最近こんなことがありました」

という報告でも大丈夫です。

あと、見知らぬ人の話を聞いているだけで、気づきが起こることが多々あります。

前回、「聞く専門」でお願いします、という参加者が途中から話し始めるという展開がありました。

ですので、カメラもマイクもオフでスタートして、話したいことがでてきたら、しゃべってもらっても構いません。

即興で対話が行われると、何か面白いことが起きたりします。

zoomでの開催です。料金は無料です。

所要時間は一時間を予定していますが、超えることが多々あります。

明日、28日(土)13時開始です。

参加を希望される方はこちらまで↓
naokifloweroftheheart@gmail.com

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