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うなぎの絵文字が無い時は

今回は真面目な話をひとつ。

いつも真面目ですけどね。
っていう前置きをしつつ。


普段デザインをやっていると、
デザインって何のために存在するのかを
考えることが多い。

「カッコ良くするため」

それも正解ではあるけれど、
「何のためにカッコ良くするのか」
本質になってくるわけで。

カッコ良くすることで「売上を伸ばすため」とかね。

要は、
それまで抱えていた課題や不便さを解決するために
執行されるのが「デザイン」という営みなのだ。

がしかし。

そんな事は本やネットにも書いてあることで
個人的には「果たしてそれが全てか?」
疑問を持つようになった。

うなぎの絵文字がない話


一度別の話を挟むが、
少し前、大好物のうなぎを食べに行く日に
グループチャットでこんな他愛もない
つぶやきをした時のことだ。

チャットツールでの僕のつぶやき

僕はこの投稿をしたとき、
うなぎの絵文字を探したのだが見つからず、
仕方ないのでフォルムの似ている
「🐍」を使った。

するとグループチャットにいる他のメンバーが
その絵文字で反応してくれた。

これだけの事なのだが、
僕はこのやりとりが非常に気に入っている。

不便さが生む創造力


うなぎの絵文字がない=不便と捉えるならば、
うなぎの絵文字は開発されるべきだ。

だがそれは必要だろうか。

欲しい絵文字を探して無かった時、
何かで代用しようという思考が発生する。

今回で言うとそれは僕のように
ヘビの絵文字かもしれないし、
そもそも絵文字ではなくネットで拾った
うなぎの画像を一緒に添付する人も
いるかもしれない。

その何かに個性が出るからこそ面白いと
僕は思う。

代わりにヘビの絵文字を使う、という個性

受け取る側もそうだろう。
うなぎの話をしているのに、
蛇の絵文字を使ったことに対して

「はいはいうなぎの絵文字の代わりね」
「なぜ蛇?あそういうことか」
「けっ。つまらんことしてるな」

などなど。
中にはネガティブな感情もあるかもしれない。
だけどそれでも良くて、重要なのはこのやり取りで
何かしらの感情が生まれたということ。

感情が生まれると言うことは
その後に行動やコミュニケーションが
生まれるかもしれない。
それってとても素敵なことだ。

うなぎの絵文字がないことにより生まれた感情たち


失くすか生み出すか


デザインやAIツールによって
自分たちの生活が便利で快適になることは
とても素晴らしいことだ。

しかし快適な生活、
快適な導線をデザインすることで
「本来生まれるはずだった大切な感情」が
喪失されることもあるのではないか、と言うこと。

感情が消えるということは、その後に起こりうる
行動やコミュニケーションも失われる。

だからデザインをしているとよく考える。
「便利なことは、正か?」と。

アスレチックのように課題の多い道。
便利でフルフラットな課題のない道。
感情が生まれるのはどちらの道か。


デザインをしていると、と言ったが
別にそれに限ったことでもないのかもしれない。

問題解決や課題解決は、
多くの人々を幸せにするのは間違いない。
だけど、それが全てではない。

今、自分がやりたいことは「感情の創出」だ。
快適な生活というのは、
考える機会や自分の感情を表現する機会が
失われている側面もある。
今自分が大切にしたいと思うのはそこなのだと。

そうなると僕がアートをやっているのも
同じ理由なのかもしれない、と気付く。

アートとデザインは対極的で比較されることも多く
それに対して葛藤することもある。

が、アートでもデザインでも、
僕が創り出したいのは「それ(感情の創出)」で
好きな理由も「それ」なんだと。

感情が揺れる時


アートにしろデザインにしろ、
練り上げられたコンセプトや制作意図がわかると
なんとも言えない幸せな気持ちになる。

「なるほど!そういうことか!」
「そんな意味があったのか!」
と。

それはつまり感情が動いた証拠。

時代の流れが早すぎたり、
問題解決に焦点を当てすぎると
何かを置き去りにしてしまう。

そうならないために進化すべきものと、
守るべきものの本質を見極めていきたい。

それが今現在の、
デザインとアートに対して考えて出した
僕の答えだ。


おしまい。

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