トリスタン和音を味わう

トリスタン和音という「言葉」自体は、主に西洋音楽に関する書籍の中で目にすることはあったものの、ワーグナーの歌劇の中で用いられた特殊な和音、という程度の理解でしかなく、そもそもどのような音によって構成された和音であるかを聴いたことすらありませんでした。

トリスタン和音とは一体どのようなものか。その一端をここでは整理してみます。

・トリスタン和音とは何か

トリスタン和音とは、ワーグナーが1857年から1859年にかけて作り上げた歌劇《トリスタンとイゾルデ》の冒頭(第1幕 前奏曲)3小節目(アウフタクトを除くと2小節目)に出てくる

[F-H-DIS-GIS]

の4つの音から構成される和音を指しています。

(参考)Antonio Pappano氏による和音説明

実際にこの和音を聴いてみると、宙に漂うようなどこか捉えどころのない不安定な印象を持ちます。

ここで用いられている和音が、「トリスタン和音」と命名され広く知られるようになった背景として、このような調性のあいまいな和音が歌劇の冒頭で、しかも後ほど触れるように単旋律の後に初めて現れる和音という極めて効果的な活用により、その後の作曲家へ大きな影響を与え、従来の古典的な和声法から無調性の時代へと転換していく契機となった点が挙げられます。

従来の古典的な和声法ではトリスタン和音の機能について明確な説明(1つの固定的な解釈)ができない(=多義的な解釈が可能)と説明されることが多いのですが、これこそがワーグナーの狙いであり、その意図を汲むならば機能的な解釈自体すべきではないともいえます。

また、ワーグナー自身は決して従来の調性音楽を否定し、新たな試みとして無調性による作曲手法の確立を目指していたわけではなく、調性音楽という従来の和声法の上に立脚して、新たな世界観を音楽的に表現したと考えられます。

そもそも、なぜ、ワーグナーはこの和音を冒頭で用いたのか。そして、その魅力を理解するためには、歌劇のテーマを知る必要があります。

《トリスタンとイゾルデ》は、中世ヨーロッパから語られてきた叙事詩『トリスタンとイゾルデ』(『トリスタン物語』)をベースにしたもので、ワーグナーはこの物語の「悲劇性」に着目して作曲したと言われています。ここでいう「悲劇性」とは、騎士トリスタンと主君マルク王の妃となったイゾルデ、決してこの世では成就されない二人の愛、言い換えれば死して初めて成就される許されぬ愛という悲哀であり、それまでに手がけた《タンホイザー》や《ローエングリン》とは異なり、とりわけ二人の内面・心情を音楽で表現した作品となっています。

つまり、先ほどの捉えどころのない不安定な和音は、トリスタンとイゾルデの決して成就されない愛を表しており、さらには、この和音は現世ではない黄泉の国を思わせ、二人の世界があるならばそれは他ならぬ死の後の世界であることを感じさせる響きであるともいえます。

続く




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