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もうすぐ今年も終わり。せっかくなので、この1年の育児について振り返って見たいと思います。

1月は子どもは就職予定である事業所で、実習の日々でした。ようやく内定をもらえて、とてもホッとしたのが先日のように感じられます。高等支援学校を卒業したあとの子どもの生活を思い描くのは難しく、全く想像できない日常を迎えるのだということが不安でした。それでも卒業式の日を迎え、同級生たちとたくさん写真を撮って笑顔いっぱいの彼を見ることができ、言葉で言い表すことができない幸福感を味わうことができました。

4月から彼の社会人生活がスタートしました。通っていた学校は自宅からバスを乗り継いで1時間30分ほどのところにあったのですが、就職先は自宅から徒歩5分。就職当初は1日の時間を持て余し、テレビやスマホに使う時間はだいぶん増えました。その時思ったことは、学校を卒業することは自分の人生の埋め方に向き合うことの始まりであるということでした。

少し意外だったのは、実習では問題がなかったにも関わらず、就職してからは仕事の出来栄えを指摘されたり作業のバリエーションの多さについていけないことが発生したことです。学校に比べて動く時間は半分程度なのに、帰宅するとクタクタという時期もありました。

こんな具合で、少しの時間働き帰宅するとテレビやスマホに没頭という日常がしばらく続き、親としては心の中でヤキモキすることが多かったように思います。卒業後は高等支援学校の友人とも疎遠になったために話をする機会がめっきりなくなった上に職場でも緊張しているので、家ではとにかくよく喋っていました。

この頃は、僕としても親子関係をどうすれば良いのか考え込む時期でもありました。今までのように子どもの面倒を見てあげていると、自分で考えたり問題を解決する機会を奪ってしまうのではないかと思っていたからです。僕らの仲は割と良い方だったので、困りそうなことを事前に教えてあげたり楽しいことを提供してあげることは簡単でした。でも親は子どものそばにずっと居てあげることはできません。障害があろうとなかろうと、結局最後は自分と向き合いながら日々を歩んでいかなければならない。というわけで、僕は少し離れたところから見ているという当初の立ち位置に居続けることにしたのです。

この状況の中で子どもを掬い上げたのは小中学高で共に過ごした、地元の人間関係でした。暇な時間に近所の友人のところに行くようになったり先輩から誘われたりして、狭くなりかけた生活範囲を少しづつ戻していきました。高校時代からスペシャルオリンピックのバドミントンチームに所属していたので、チームメイトと一緒に体を動かすことができる居場所があったことも幸いでした。体を動かすことへの興味は、その後定期的にジムでトレーニングすることにも繋がったようです。

仕事に関しては就職後しばらく経った後も、モヤモヤすることがあったようです。仕事で怒られたり面倒なことがあったということありましたが、時に思い出したように都会の専門学校に行きたかったというようなことを口にするのです。

当然です。健常な同級生は進学して楽しい毎日を送っているのに、何故自分はこんな地味な作業を繰り返すだけの仕事をしなければならないのか。到底納得できるものではありません。

ただ、そういったことを受け入れることや折り合いをつけるのには時間がかかります。でも僕としては就職できたことをもっとポジティブに感じて欲しかった。だから、そういった愚痴を一通り聞いた後に「何かを成し遂げることはできないかもしれないけど、君の人生は楽しいもの探しだと思う。今できそうなことを一つづつ試してみよう」というような話をしました。

というわけで、もらった給料を片手に「生のお笑いライブはどのくらい面白いのか」「1人で新幹線に乗れるようになりそうなのか」「都会に行ったとき自分でGoogleマップをどのくらい活用できるのか」「高い食い物は本当に美味しいのか」など、とにかく「今できる楽しそうなこと」を片っ端から試してみた1年でもありました。

その中で新たに彼が始めたことは「おひとりさまグルメ」です。週に2日は1人でふらっと外食に行くようになりました。辛い仕事にはご褒美があった方がいい、ということを体現しているのだそうです。また、たまたま入ったレストランの店員さんが同級生のお母さんで、ランチを値引きしてもらうというサプライズもあったそうです。

稼いだ給料で家族にお土産を買って帰るということもしばしばありました。僕や妻が仕事から帰ってくるとテーブルの上にミスタードーナツの袋があるのです。「これどうしたの?」と聞くと「食べたかったから家族の分も買ってきた」と言うのです。こういった気の利かせ方が全くできない僕は、この1年で家庭の中の肩身がだいぶん狭くなったように感じます。


僕からみれば、彼はまだ人生という器をどういうもので満たしていくのか、その手がかりすら掴めていないような気がします。この先も、そういうこととは無縁の日々を歩んでいくのかもしれない。そして親子の距離も少しづつ離れてゆく。僕らの将来に、大海原に小船で浮かんでいるかのような心細さを感じています。

反面、日常とは本来そういうものかもしれないとも思っています。自分自身の目標志向的な価値観が間違っているのではないか。人生には目標など存在しておらず、ただ過ぎていく日々に自分で価値を決めていくだけなのだと。それはそう思わざるえない出来事が、今年僕自身に起こったことも関係しているのですが。


最後になりましたが、拙い文章に目を通して下さったみなさまにも深く感謝しています。読んでくださる方達のおかげで、こうやって書くことができています。

この1年、本当にありがとうございました。




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