2. 現在の社会における違和感
現代社会は、目まぐるしい技術革新とグローバル化によって、かつてない速度と規模で変化している。しかし、その進歩の影で、多くの人々が「生きている実感の欠如」や「つながりの喪失感」を感じているように思う。私たちはテクノロジーの恩恵を享受しながらも、同時にデジタルな環境に囚われ、身体的な実感が薄れていく「ながら身体」と化しているのではないかと感じている。この章では、その違和感を掘り下げて考察し、超遊戯がこの状況にいかに切り込めるかを検討する。
まず第一に、多くの人がスマートフォンやパソコンを介して、日常生活のほぼすべてを管理するようになった。日々のスケジュール管理やコミュニケーション、エンターテイメントに至るまで、これらのデバイスなしでは成り立たない社会構造になりつつある。これは一見、利便性を高めているように見えるが、実際は、私たちが常にデバイスを通して生活することにより、物理的な世界での身体性や、リアルな触れ合いから離れ、感覚が麻痺していると感じることも多い。このような状況において、多くの人が「テックトリップラー」化し、自身の存在をデバイスに依存する形で生きているように思える。(「テックトリップラー」については、別の記事で取り上げる。)
身体がただの「器」として捉えられ、あらゆる経験や感覚が失われてしまうのではないかという懸念もある。
次に、社会のスピード感が、人間同士の繋がりを浅薄なものにしているように感じる。SNSやオンラインでのコミュニケーションは、瞬時に情報を伝達することができる一方で、深い交流や真の共感が生まれにくいという問題がある。私が関心を寄せているM・ブーバーの概念である「私 - 汝」の関係は、相手と向き合い、お互いを尊重し合うことで生じる深い人間関係を意味するが、現代においてそのような関係を築く機会は希少になりつつあるのではないか。多くの場合、オンラインでのやりとりは「私 - それ」的な接し方に留まっており、相手の人間性や存在を真に感じ取ることなく、表面的な情報交換に終始する傾向がある。これは、私たちが本来持っている身体性や感情の交流を希薄にし、結果として人間関係の質を損なっているのではないかと考えている。
さらに、現代の社会は「効率性」や「成長」を重視するあまり、自己の内面や感性を犠牲にしてしまうような構造が強まっているとも感じる。経済的な成長やキャリアの成功を追い求めることが強調されすぎているために、個人の「遊び」や「ゆとり」といった感覚が軽視されているのではないか。古代の日本には、自然と共に生き、季節や時の流れを感じながら生活するという、もっと緩やかな生き方があったはず。しかし、現在の日本社会では、このような「もののあわれ」を知ることや「間」を楽しむ感覚が失われつつある。これにより、多くの人が心の安らぎや充足感を見失い、「何かが欠けている」という漠然とした不安や違和感を感じながら日々を過ごしているのではないだろうか。
このような背景を踏まえたとき、私は「超遊戯」がこの状況を打破するための一つのアプローチになり得ると考えている。超遊戯とは、あらゆる物事に対して「遊び」の感覚を持ち込むことで、硬直した思考や生活スタイルを解放し、新たな視点や価値観を見出すことを目指している。たとえば、子供の頃に遊んだ「鬼ごっこ」や「けん玉」といった遊びは、単なる娯楽ではなく、身体感覚や他者との関係性を培う重要な役割を果たしていた。このような遊びの感覚を再び取り入れることで、現代人が失っている身体性やつながりを取り戻し、他者と共感する力を育むことができるのではないかと考える。
現代の社会における違和感は、多くの人にとって一種の「見えない問題」として認識されがちだが、超遊戯を通じてその違和感を顕在化し、解消に向けた動きを作り出すことが私の目標だ。身体性とつながりを取り戻し、深い共感や新たな視点を育むことで、人間本来の豊かさを取り戻すための一歩となることを願っている。