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1. 超遊戯

「超遊戯 (super play)」という概念は、現代社会における「遊び」の再発見と、それを通じて自己と世界の関係性を問い直すための新しい考え方を指す。特に、近代以降の工業化やデジタル化によって、生活や行動の多くが合理性や効率性に基づいて構築されている現在において、「遊び」が持つ意味やその意義が薄れてきた現状に対する応答として、この概念をつくった。超遊戯では、遊びを単なる娯楽や気晴らしとしてだけでなく、個人の表現や内面的な自由の具現化、さらには社会における新しい価値観や関係性の構築の手段として位置づける。

この思想における「超」という言葉には、「既存の遊びの枠を超えた次元での遊戯」という意図が含まれている。単に遊びの楽しさを追求するだけでなく、遊びの中で個人が創造的に表現し、深い自己認識や他者との相互作用を得ることができるような状態を目指す。特に注目したいのは、日本の伝統的な遊び(例えば、鬼ごっこや竹馬、けん玉など)に見られる「身体を用いた遊び」の持つ意義だ。これらは古来から世代を超えて継承されてきた文化的価値を内包しており、それらを現代的な解釈で取り入れることにより、文化的な自己認識の深化や新たなコミュニケーションの場が生まれる可能性があると考えている。
また、超遊戯は「身体性の回復」を一つの重要な要素としている。テクノロジーが発達する一方で、デジタル化の進行によって私たちの身体は多くの場面で「ながら行為」によって占有され、身体が心のあり方や思考と切り離される現象が見られる。これにより、私たちの身体感覚は表層的なレベルにとどまり、本来の身体を使ったダイナミックな体験や、内発的なエネルギーを表現する機会が減少しているのが現状だ。超遊戯では、この身体性の欠如を回復し、遊びの中で体を自由に使うことを通じて、私たちが自己を再発見し、心身を豊かにしていくことが可能であると考えている。
さらに、この考え方は、日本の伝統的な哲学や自然観にも通じる要素を含んでいる。例えば、かつての文人や思想家たちは「自然と共生し、物事の本質に近づく」ことを大切にしており、これらは「遊び」の中にも見られる心のあり方だ。自然と一体になる感覚や、移り変わる四季の変化に対する感受性を取り入れることにより、遊びを通して個人と自然、社会との新しい関係性を構築することが可能になると考えている。現代においても、そのような自然との共鳴や調和は、多くの人々が求めている価値であり、超遊戯はその実現を助けるものとなると考える。
そして、超遊戯においての「遊び」とは、無駄や非効率と捉えられがちな要素を積極的に肯定し、人生に彩りと奥行きをもたらす活動であると位置付ける。効率主義的な考え方が支配する現代においては、無意味とされる行為が排除されがちだが、実はその無意味な行為こそが、人間らしい創造性や自由を支える重要な要素だ。遊びは一見、成果やゴールがないように見えるが、実際には私たちの内面や人間関係に新たな発見をもたらし、人生に対する新しい理解を深めるものである。

超遊戯は、遊びが単なる余暇活動として消費されることに対するアンチテーゼであり、遊びの中にある「可能性の領域」を探求する考え方だ。

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