ドットを打つ仕事
プロフェッショナルとGLOBIS知見録から
ドットを打つ仕事とは?:社会の承認や評価を気にせず、自分が面白いと思うことに没頭する仕事
「ドットを打つ仕事」とは、従来の社会システムや評価基準から離れ、 誰にも評価されなくても、自分が面白いと思う仕事に没頭すること を指します。
現在の社会には「ブルシットジョブ」と呼ばれる、無意味な仕事が蔓延している。
ブルシットジョブは、社会的に必要とされているように見せかけているだけで、実際には何の価値も生み出さない仕事です。
大学などの教育機関も、ブルシットジョブの温床と化しており、本来の教育機能から乖離していると批判しています。
このような状況の中で、落合氏と成田氏は「ドットを打つ仕事」の重要性を強調しています。
ドットを打つ仕事の特徴
社会の承認や評価を気にしない:ネットワークや社会からの承認を得るためではなく、自分が本当に面白いと思うことに取り組む。
経済的な報酬を目的としない:金銭的な報酬よりも、自分の好奇心や探求心を満たすことを重視する。
独自の価値観に基づいている:社会通念や常識にとらわれず、自分自身の価値観に基づいて行動する。
ドットを打つ仕事の例
ファーブルが昆虫を収集すること
落合氏が誰にも理解されなくてもメディアアート作品を制作すること
成田氏が大学という組織から離脱し、大根を育てること
ドットを打つ仕事をすることの意義
新しい価値観やイノベーションを生み出す:既存の枠にとらわれない自由な発想から、社会を変えるような新しい価値観やイノベーションが生まれる可能性がある。
人間の創造性や可能性を解放する:社会の評価や報酬に縛られることなく、自分の才能や能力を最大限に発揮することができる。
本当の意味で豊かな人生を送る:自分が心から面白いと思えることに打ち込むことで、充実感や幸福感を得ることができる。
補足
ドットを打つ仕事は、必ずしも社会的に認められるとは限りません。
ドットを打つ仕事をするためには、経済的な基盤や社会的なサポートが必要となる場合もあります。
しかし、落合氏と成田氏は、デジタルネイチャーのような新しい社会システムが、ドットを打つ仕事をする人々を支える可能性を示唆しています。
ドットを打つ仕事は、AI時代において、人間らしさを保ち、創造性を発揮するための重要なキーワードと言えるでしょう。
自分の仕事に「クソ仕事」という表現を使う理由
成田悠輔氏は、大学などの教育機関は、本来の教育機能から乖離し、社会システムを維持するための「ブルシットジョブ」の塊と化していると指摘しています。
「ブルシットジョブ」とは、社会的に必要とされているように見せかけているだけで、実際には無意味な仕事のことです。
成田氏は、大学は良き教育者育成の機能をほとんど持たず、大学教員は自発的な努力で能力を身につけていると述べています。
大学組織や教員は、良い教育を提供することよりも、大学の政治的な立場や権威を維持することに重きを置いていると批判しています。
成田氏自身も、イェール大学で教鞭をとっていますが、それは他にできることがないからであり、完全に「消化試合」であると自嘲気味に語っています。
これらの発言から、成田氏が自分の仕事である大学教員を「クソ仕事」と表現するのは、現在の大学における教育や研究が、社会システムに組み込まれた無意味な仕事と化してしまっているという強い批判 からであると考えられます。
補足
落合陽一氏も、成田氏と同様に、社会システムから離脱し、「ドットを打つ仕事」、つまり誰にも評価されなくても自分が面白いと思う仕事をすることの重要性を説いています。
落合氏は、デジタルネイチャーの概念を通して、社会システムに依存しない新しい生き方を提案しています。これは、成田氏の考えとも通じる部分があると言えるでしょう。
デジタルネイチャー:都合の良い自然
デジタルネイチャーとは、人間にとって都合の良い自然を指します。落合陽一氏によると、現実の自然は人間にとって攻撃的で、虫や寒さ、怪我など、常に危険と隣り合わせです。
一方、デジタルネイチャーは、人間にとって持続可能で最適化された、情報的に制御された自然です。この自然の中では、人間は安全に、そして持続的に生活することができます。
落合氏は、デジタルネーチャーの例として、管理されたキャンプ場を挙げています。キャンプ場内では、火を使う場所や寝る場所が決められており、危険な野生動物に襲われる心配もありません。
デジタルネイチャーは、現実世界とデジタル世界が融合し、自然そのものがデジタル化された状態を指すとも説明されています。
落合氏は、デジタルネイチャーが、現代社会における様々な問題、例えば孤独や社会保障の問題を解決する可能性を秘めていると考えており、全社会保障会議などを通してその実現を目指しています。
デジタルネイチャーは、人間中心主義的な自然観に基づいた、新たな自然概念と言えるでしょう。