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独学神学 第二の使者論

■アウシュビッツの後に

・アウシュビッツの後に、全知全能の神の沈黙の意味が問われる

・全知全能の神の沈黙の意味は、神の全愛性、を考慮しなければもはや人間に了解不可能ではないだろうか

・全愛性とは、「神の人間の自由意志への信頼(賭け)」ということになる

・それは、当初の自由意志の問題に遡り、「アダムとイヴから自由意志は”まだ”撤廃されていない」という神との”信頼関係の継続”と、人間とのアクティブな関係、が伺える



■自由意志はまだ撤廃されていない

・アダムとイヴは、自由意志を有したゆえに、原罪を犯し得、かつ、犯し、失楽園し、キリストの救済により、原罪の撤廃の可能性に到達した

・だが、ここで、抜けてしまう視点は、「にも関わらず、アダムとイヴ(人間)から、まだ自由意志は撤廃されていない」という命題について、である

・自由意志は原罪を犯しうる大変危険な側面があることが、失楽園以降判明した

・だが、にも関わらず、「まだ自由意志は撤廃されていない」のである

・原罪の後に、キリストによって、その罪は贖われる可能性を獲得したが、よりさらに第二の原罪が生じ得ても、おかしくない、ということなのである

・なぜなら、「自由意志によって原罪を犯したにも関わらず、”まだ自由意志は撤廃されていない”」からである

・それは、神が全知全能であるだけ、ではなく、全愛(つまり、合理ではなく愛、要はここでは信頼の意味)によって、いまだに、人間の(大変危険な)自由意志を生かしている、という神と人間の関係が、死んでいない、ということ、未だにアクティブな、神話継続的な関係であることが伺いうるのである

・原罪後にも、原罪にも関わらず、自由意志は撤廃されていない。この命題を、「原罪後自由意志」の命題としておきたい


■無力な神か、有力な人間か

・アウシュビッツ以降、神は全知全能ではなく無力である、という考えも生まれたが、全知全能ではない神もまた神ではなく、語義矛盾に陥る(「無力な神」の否定必要性)

・他方、人間は、イエス・キリストがまさに父なる神に見捨てられたように、イエス・キリストと同等の受難(ショアー)を受ける力と必要があるという考えでアウシュビッツを受容するような水面下の思想方法もあるが、その場合、イエスによる贖罪(肩代わり)は無意味になるし、そのような神は誰なのか、という矛盾に陥る(アウシュビッツを受難と捉えてそれに耐えうる「有力な人間」の否定必要性)

・この地点から言いうるのは、あたらしい神話的叙述が必要であること、である


■神の全愛性

・神は全知全能にほかならないが、それだけではなく、全愛、つまり「人間の自由意志を信頼して撤廃しない」という性質があることを再発見しなければならない、ということである

・神にも”賭け”が可能である、ということである(言うまでもなく全知全能性のなかには、”賭け”をする性能も含まれるだろう)

・神の”賭け”とは、「人間はかつてその自由意志によって原罪(失楽園)を犯したが、にも関わらず、その原因となった、自由意志、について、人間を愛し、信頼するゆえに、撤廃しない、まだ、していない」ということである

・おそらく、神の全知全能性は、人間がアウシュビッツのようなショアーを引き起こす可能性がある選択肢の前に立った時に、全愛性を発揮し、全知全能性による制御、ではなく、人間の自由意志の優先、を、人間の愛を信頼し、選ぶのであろう(ただし、その賭けは、アウシュビッツを見る限りでは、失敗したといえる)

・全知全能の神に唯一か、可能な”賭け”とは、人間の自由意志に委ねる、ということにほかならない。人間から自由意志を撤廃しない、まだ、今も、現に、していない、ということが、全愛、という神の性質なのである

・ここまでが、現代神学を始めるうえでの、仮説しうるこの神学的前提である



■神の第二の賭けの失敗と第二の使者

・これらの神学的前提から、現代神学(アウシュビッツ後の神学)は可能である。要は、神(全愛)と人間(自由意志)は、”賭け”を行ったのである。だが、それに失敗したのである。

・その光景は、神が園の木のうち食べてはいけない木を、わざわざ教えて、その生末(つまり人間による神の他者性の尊重、人間から神への愛)を、要は、人間の自由意志による神の意志との一致(従順)を、”賭け”たあの光景と同じである(この際に、神の全知全能性は全愛性に優先されている)

・失楽園における神の第一の賭け(知恵の木の在り処をあえて教えたこと)に対して、アウシュビッツの選択肢の前に立った人間から自由意志を撤廃せずに、その選択を見守ったことは神の第二の賭けであったと言える

・だが、賭けはふたたび失敗したのだ(第二の原罪としてのアウシュビッツ)

・であるときに、第一の賭けの失敗による結果としての、「原罪」に対して「イエス・キリスト」があてがわれたように、第二の賭けの失敗に対しても、「何かしら神からのもの(使者だろうか)」を期待しうる、ということでもある

・全知全能性から全愛性を優先して、”賭け”を行ったのは神であり、その責任は神しか伺い知らない(神に原初的な責任があるということである)

・この際に、第二の賭けの失敗の後、神は終末を到来させてもよかっただろうし、人間から自由意志を撤廃してもよかった

・だが、神は少なくとも、いまだに、人間から自由意志を撤廃していない(神と人間の信頼の関係は継続している)

・つまり、第二の賭けの失敗に対して、信頼の関係は継続したことにより、第一の賭けの失敗に対して神からキリストが遣わされたように、同じ様に、「何かしら神からのもの(使者だろうか)」を期待しうるのである(人間から神への信頼可能性)

・第二の賭けの失敗とは、ショアーのその結果であったし、人間の残酷さが事実として登録されたことであるし、全体主義や独裁主義は禁止されたものの、その威力はやはり人間の現実に登録された(つまり、隠された全体主義や独裁主義はいまだに全盛である)こと、である

・イエス・キリストの教えだけでは拭えない、怯え、が人間史に登場してしまったことである

・これは、人間側からの自由意志による自助努力によって解消していく努力はなされるべきであるが、この、人間史に生じた、怯え、については、おそらく、原理的に(つまり絶対他者性によらなければ)、解消しえないだろう

・ここに、第二の賭けの失敗に対する、「何かしら神からのもの(使者だろうか)」を期待しうる、という言説が可能になるのである。それが「第二の使者」という言葉に結実するのである

※ここまでのキーワードは「神の全愛性」「神と人間のアクティブな関係」「全知全能性の非否定性(神の無力の否定)」「人間の受難の非必然性(人間の有力の否定)」「原罪後の自由意志(まだ撤廃されていない)」「神の第二の賭け(とその失敗)」「期待しうる何かしら神からのもの(使者だろうか)」「第二の使者」



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