アルス・エクリチュール 超再生への欲望または意志としてのアン
■超再生への欲望または意志としてのアン
・アンはしかしながら、単に再生の欲望、というようにスムーズではない。それは”超”再生なのである
・リビドー(生産)、ヌーメン(登録)、ヴォルプタス(消費)の欲望の果てに、たしかに、アン(再生)は生じるが、アンにおいて、はじめて、この欲望の四位一体の回転運動を超脱した、唯一一回生(アウラ)を垣間見るのである。欲望の流れがアンに至らない限り、アウラは生じない
・そのときに、アンにおいて生じるのは、ふたたび、同一の欲望の四位一体(永劫回帰)の欲望ではなく、まさに、差異の生じた、唯一回性への志向なのである
・それは、都度、差異のある欲望の四位一体の回転運動への志向でもあり、都度、新生することへの意志である(欲望それ自体の変容、新生)
・その究極において、この欲望の回転それそのものからの超脱的な、つまり、完全に唯一回性のアウラそれそのものへの、まさに”超”再生が志向されるのである(再生超越的)
・アンにおける超再生とは、たとえば、ヴォルプタス(消費)の地点で、割り箸を大量に毎日消費する男が、家にある特定の箸に愛着を抱き、不定冠詞それそのものからの超脱を試みる恩寵それそのことである(アンとは欲望の最終形態において、それそのものから超脱する欲望、なのである)。ヌーメンの場合には、男は割り箸それそのものを奪われる形態で家にある特定の箸を使わざるを得ない、というふうだが、アンにおいては、自ら、家にある箸に愛着し、割り箸を捨てるのである
・この超再生への欲望は、欲望でありならがら、神聖なるものとしての意志なのである。そこでは、超再生においては、原述語付けが主体に対して、生じるのである
・ヘーゲルの絶対精神への弁証法の運動がナチズムに至ったことを、ここで思い出されたい。それと同様の危険が、ここにも生じないだろうか
・この点において、ヘーゲルの弁証法は、リビドーとヴォルプタスの二項に限定されており、人間的に過ぎたのである
・欲望の四位一体は、リビドーとヴォルプタスの人間主体的な弁証法に対し、ヌーメンとアンの絶対他者主体的な弁証法を、それら弁証法への弁証法(否定弁証法)として想定するのである
・ヘーゲルの世界には、人間しか登場しないが、欲望の四位一体においては、それを構成する一対(ヌーメンとアン)は、絶対他者からの阻害と恩寵の受動態であり、まさに、絶対他者を想定するのである