仄のめかす黙した木々のこと。あなたとわたしと、他の聖なる動物たちとの答えについて 7/27 エクソダス、続・出エジプト記

■エクソダス、続・出エジプト記

・つまり、エクソダス(集団移住)が行われていると、超越点からして、言うことができる

・人間はそもそも完成していないと考えるからだ

・わたしが出会ったのは、やはり、燃える柴、であったし、そのことがなかったら、そもそも、超越について口を開くということ自体の責任を負うこともなかった(現実的という合言葉の範疇で収束させることで、完了しえた)

・ヤスパースは世界が暗号化し、その暗号を解読していくことで、主観と客観を超えた、超越者と出会うということを「哲学」のなかで書いた

・ヤスパースの、しかし、限界は「哲学」ということだったのかもしれない(それは超越点を示すまで)。モーセは燃える柴の後に、エクソダス(集団移住)を敢行した(超越点からの言葉を翻訳したのだ。全身をもってして)

・各国の言語を獲得し、バイリンガルやマルチリンガルになる以上に、翻訳を、つまり、翻訳語、をこそ獲得することがすべてを読み解き、話す方法である(この世界には翻訳語しか実は存在しない)

・ふたたび。この世界には翻訳語の記号化された各国語(バベル)があるのみで、真の言語とは、翻訳語、のことなのである

・意味の正体とは、翻訳語、のことである。翻訳語とは即ち、意味それそのことなのである

・翻訳語の獲得次第により、世界は確かに、暗号化する(この時点で発狂する者も多いし、下手な曝露の仕方をすると、精神病院などに入ることにもなる)

・意味自体の時空である。言語の重圧を超えて、意味自体が人間に到来し始めるのである(必然的偶然、シンクロニシティ、アウグスティヌスの聞いた言葉)

・ラカンの現実界との邂逅とは、この翻訳語に到達した、意味自体の時空に到達した人間に起こることであり、大抵は、狂気に飲まれる(世界そのものが語りかけてくるという精神病者の疾患は疾患ではないという理性に到達しなければならないからである。それがRDレインの言ったことである)

・この重圧を狂気にのまれず、乗り越えたものは、もはや万物万象をひとつの言語としてしか読み解かなくなる(簡単にいえば、ヤスパースのいう暗号化する世界に移行するし、縁起の法則とは翻訳語のことに相当する)

・それは、言語というものがひとつの比喩であったことを識ることなのである。全身全霊をもって、痛覚や思考や現象などあらゆるものが一致してしまうのである(わたしは肉の棘をさされた)

・さて、この狂気は、人間をして超越者に至らせるが、そこには個々の役割がある、とわたしは考える(それが個々人という意味であるだろうし、歴史的文脈を背負った個体性のことの回収に相当する)

・ある人にとっては、ある時間、ある空間において、机のうえに置かれたコップの水は、他の文脈から参照して、全く別の意味になって意識に言語的浮上などを果たす(これが翻訳語の特徴である)

・この翻訳を継続することで、「コップの水」を文字通り「コップの水」としてしか理解しない人間と、たとえば「わたしは3時にドアを開けて旅立たなければならない」と理解する人間とでは、生きる、「文明」、がもはや異なる

・これが、続・出エジプト記(エクソダス)である

・物象化とは、文字通り、それがそれ、であるようにしか認識しない頑なな人間のあり方を意味する

・眼の前の「コップの水」ひとつをとっても、「コップの水」にしか理解できない場合は物象化されているし、「あの人のことを思い出した」とか「神の臨在をまざまざと識る」とかいう場合には物象化を免れていることになる(自由ということ)

・出会いとは、物象化を免れた人間のみが果たす超越なのである

・そして、このわたしの固有性から言いうることはエクソダスである。しかしながら、エクソダス(”集団”移住)とは、集団、という部分になにかが充填されている

・つまり、暗号化する世界、翻訳語の世界を辿っていった人間たちが必然的偶然において出会うということ(映画「未知との遭遇」)は、つまり、まさに、エクソダスなのである

・物象化されたこの文明において、奴隷的であることを自覚した、その奴隷こそが、翻訳語を伝って、超越点から、その脱出を命じられているのである(自由へ)

・翻訳語を伝ううちに、その個々人自体になんらかの傾向性が宿ることは容易に察しが付く。結果、その傾向性において、出会うときに、その出会いは必然的偶然によって、超越点からして手配されていたということは可能ではないだろうか

・すでに、エクソダスは始まっているのである

・だが、警戒しあわなければならないだろうことは、互いに互いを物象化してしまうことである

・主催者は、超越点である。超越点に呼ばれた個々人が、自らが主催者であると勘違いしてしまった場合に、そこは滞留になり、カルト的グループになってしまうのである

・結果、わたしはすべての人が超越点に呼ばれていると考えるようになった(全対等)

・なぜ、わたしの場合はエクソダスであったのか

・確かに、言えることは他者を物象化する権力に属する人間のほうが大多数であるだろうからである

・どの時点で、全対等に至るのかなど、ほとんど不明であろうが、少なくとも、他者の物象化や現代文明による人間の物象化から、逃れなければそもそも生きられない人間たちのエクソダスをおもう

・というよりかは、本来的にそうなのである

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