【リーディングアート】芸術的脱イデオロギー
■芸術的脱イデオロギー
・以下のことは、芸術家のロートレックが述べなかったことである
・つまり、芸術は、イデオロギーの宝庫にして、地獄でもある。あらゆる、主義的なもの、を的にせずとも、なにかしらのイデオロギーが爆発的に巡りあっている(カンブリア紀的奇形正常性)
・たとえば、なぜ、日本的なもの、を標榜して、芸術家が芸術を行うのかといえば、海外への意味深な位置取りであり、戦略であり、つまるところ、イデオロギー、であろう
・だが、しかし、その際に、〈なぜ、そもそも日本人なのに、日本人を"装う"のかというメタ的な不要性〉が、透明感を喪失させる(これが、まさに、ポストポストモダン的な、二乗的な過剰性を表す)
・つまり、日本で生まれ育った以上、日本的なもの、を、わざわざ、再発見した、という装飾性が過剰になるのであろう
・その余剰意識が、絵画平面に、投影されて、視覚的無意識として、作品前面に膜を張る(そのことを価値にするのならよいが、そのことの、この、膜、は、まだ、彼らには発見されていない以上、真に価値にはなり得ない)
・何もしなくてもよいといえば、わかりやすい。ただ、描いたときに、出てくる線がすでに、日本的なもの、なのであることをこそ、見つめる。なぜなら、日本で生まれて育ったから、である、という自体性を見るだけでよい(こちらのほうが、より多変量解析的なのである)
・さて、これは、イデオロギーだろうか。そうではありえない。自体性である
・そもそも、対象となるイデオロギーが、存在していなければ、この言説は不可能であり、存在し得なかったことを鑑みるとき、イデオロギーではありえなく、自体性からした、防御反応である(オルターモダンとは、その意味を持つ)
・このように、ロートレックは言ったことはない
【以下、今週分】
今日は大分の美術館でロートレック展をみてきますね(報告)
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