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■談話的にイコニカル・デュミノーゼ(たとえば、言葉についての談話)/的に□

■1 談話

・イコンの啓けのように、七色の、そのプリズマティカルな、私の知らぬ、また、知っているもの

・そして、堺目や、世界の、創生(つまり、クリエイトを用いたビゲット)

・そういったものとして、これがあって

・合目的性から脱しながら、それ自体が目的化していく、その叙述ということ(花びらに似ているだろう、と)

・叙述に自由が、その解放を求めている。求めて、い―る{(だろう)か}

・小さな花が勝手に咲くような、抱かれ(懐かれ)、についてのディスクリプションです

・もはや、まさに、創造的(または生誕的)な、エクリチュールとは、すでに、そう、造語的に、かつ、脱分野的にしか不可能なのではないか

・たとえば、その価値を問われるということは、規定された価値体系のなかにすでに組み込まれていくもののように、さえ

・このように、自意識の解体、を以てして、私自身でさえ、このエクリチュールがいずれの何なのか、を問えないほどのところに企投"される"ことで、可能になるあの神聖なる動態への賛美でもある

・幾ばくか、装飾的に、しかしながら、装飾性のなかから、意味、と呼ばれる、あの"実感"が、われわれに訪れるようにだろうか

・さて、言うまでもなく、言うのであるが、わたしは文体をあえて、乱していることは言うまでもない{だが、あえて、とは? より増して、これは、乱、ではなく超絶的なもの、なのではないか、本当に(?)/印象ポイントマイナス1}

・たとえば、私、は、わたし、になったり、自分、になったり、ぼく、になったり分散された主体を有機的に稼働させたいのである。ときに、おれ、と書くときに、をれ、とか誤字が入ることがあるだろうが、それもなにかしらの生成返還と詳察しながら、放置することにしている(自然性という名の虚構的実際を精製するということに近い)。至極、メンドウ、ということだ

・ある速度、というより、速さにおける超過が、創生を可能にしていることには気がついている(クリエイトとは能動的創造であり、ビゲット受動的誕生のことである)

・ある、無立場性、を用いる、活用する、ということがなければ、エクリチュールに余白は生まれることはない(より言って、産まれる、ということ)

・誰もみたことがない、というよりも、誰もその効果をまだ実感したことがない、ものを実感させたいのである

・それにも増して、神話(ミュトス)的な語られを引き起こす、ということは、こう、なのである

・再三だが、人間には、神秘的視点、超越項、情報量が、必要になる

・そうでなければ、相手への視点は、偏見に容易に落ち込むであろう、し、超越項がなければ、簡単に弁証法の罠(要はナチズム的結論)に至るだろうし、し2、情報量、つまり、ボキャブラリーがなければ、単純なスクリプト(台本)に嵌り続けるだろう、"し"、ということである

・うどん屋さんに、今日、行ってきたの(ですわ)。そこで、店員さんに対して、お客サマが、お怒りになっておりました。(。)

・言っていましたわ。ええ。「責任者を呼べ」と。そう、おっしゃっておりました(とさ)/言う or おっしゃる

・まるで、ドラマのセリフ、か、テレビかなんかで見たような光景でしたのよ。(。)/たぶん、ドラマですわ

・ですけれど、たぶん、ドラマのセリフか、テレビかなんかで見たのだと思いますわ。(。)/だから、ドラマですわ、って(フラッシュ・バック?)

・そのことのように、ボキャブラリーがないと、テレビかドラマと同じ台本を演じる、か、神秘的視点がないと意味のない表層的な激突になる、か、超越項がないと、メタ的に場をずらす(別様の場の生成誘発)、か、が出来なくなる{意味のあまりとしては、そのように、他者の動向、を自分のことを棚にあげて書いている、自分、という残渣がでます、まさに、その部分なのですけれども、このエクリチュールでは、割り切りますわ。(。)}/あ、誤解のないように書くと私ではないですよ

・だが、重要なのは、別に、特に、人間における、道徳的、または、倫理的な、何かそういった訓戒を書きたいわけでもないし、書かないと思われるのである(ですわ)

・文字も、ひとつの絵なの(視覚的無意識。たしかに、ロザリンド・クラウスの言うように)

・そして、ここで、オルターモダンに変遷していく(芸術のトポスこそ、このエクリチュールの本懐に近しいか、そう、であるから由)

・たしかに、由

・さて、ウィトゲンシュタインの、言語ゲーム、という言葉の誤読か、ドゥルーズ=ガタリの、リゾーム、の別解釈としての、表明的実態をここに露呈させれば、やはり言語には生態系があり、その生態系各々の語調に従う叙述を、クレオール化(要は混雑的に合成)したときに、世界自体の動向に、影響が起こることまでは、気がついている

・このあたりを把握(レンマ的に)しようとしていたのは、カール・グスタフ・ユングだろう、と

・だが、これ以上の言及は、神秘主義のカテゴリに没入してしまう可能性が出てくるので、哲学〜思想に、まさに、今このように、着地し、また、別の領域に変遷してゆくのである(文学。え!? ホントに??)

・このように、印象の連続において、言語内スクリプトは、スクリプト内言語に裏返り、言語以上に、現実のほうが、より、スクリプトじみていることに直知することができる

・すべては、有機的な相対運動なのである。と、言うことが、「すべては有機的な相対運動」のなかからは言いえないときの、ズレ、が、この断定を不可能にもしている(不完全性定理的)

・それにも増して、神、とか、超越、とかいう言葉がある時点で、すべてを相対運動と捉えることは不可能なのである(弁証法的な罠)/神がいるとかいないとかではなく、神、という言葉を生成した人類の超越性とは如何に、としか、私には

・要は、やはり、世界は神秘的である(神秘が何かわからない以上、"的"としか、わたしには)

・よくわからないのである。少なくとも私には

・叙述が世界を生成してしまうということ。それも間接的に読まれることを待たずして、ということ(阿頼耶識とかだらうか)

・そのやうなことは、西洋的な合理には、あまり書いてはいやしなひことでありますが、特に東洋でも、そこまで特有に扱われたわけでもないのではないですか、とワタクシ、書いてみたひのであります

・問題は西洋東洋では、割り切れぬことであろう

・そういった超越項を連打することで、ここで破談が訪れた(これは、談話、でした)

・本当に?

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