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【NOVEL】ある男の人生 第2話

 男は善良な気質だったが、役職が変わり、部下を従えるようになってくると、徐々に態度も変化していった。部下の仕事が気に入らなかったり、自分の機嫌が悪い時には、公然な場で彼らを厳しく叱責してみせた。男は必要以上に高価な車を所有し、自分の趣味に金をかけるようになった。新婚当時、あれほど家庭を大切にしていたが、以前と比べると、仕事の量は増し、その質も責任のある重厚なものになりつつあった。終日、働き続け、稀の休日には友達仲間と遊び歩き、酒色に身を委ねた。彼の妻は忍耐強い者だったが、鬱憤が溜まり溜まって、彼と口論になることが次第に増えていった。二人は三十二歳だった。
 男は自己の生活を眺める余裕がなかったので、妻からしてみれば生き急いでいるように見えた。
 労働と歓楽に耽る男だったが、生活がことごとく流れ過ぎるので、このまま生涯を終えるものと思っていた。家庭との距離が次第に大きくなり、五歳になる娘に疎まれるのも気にならなくなった。これが平生なので、彼自身、世間一般の夫であると思い違いをしていた。 
 当然だが、それは長く続かなかった。男の両輪の欲求は加速度的に増していく。入社当初は、同僚と二人だけでも一杯の酒で愉快になれたものだったが、さらに楽しい気分を味わうためには、上等な酒と刺激ある友達を求めるようなる。が、しばしば繰り返されるうち鼻に付いてしまい、今度は女の友達が必要になってくる。それだけでは飽き足らず、自分好みの容姿をもつ女性を求めるようになってくる。満足を枯渇させまいと思ったら、絶えず遊びの度合いを強めていかねばならない。同時に、他人に対する要求も強くなっていくので、周囲の人間は男を敬遠するようになっていった。男は、連中との距離を感じ取ると、漸く自分の悪い部分を痛感したが、己の非を認めるのが嫌だった。
 ある日、彼の情婦が金をねだりだした。小金であれば小遣いのつもりで渡していたが、今回ばかりは男も首を捻るほどの大金だったので、女の要求を容れなかった。すると、その情婦は手の平を返すように、別の下心のある富豪と懇ろになり、男のもとを去ったのだった。こんな境遇に落ち込んだ男に対して、優しく接する者は誰一人いなかった。幸い、妻子には悪事が露見せずにいたが、自己の虚しさは心奧に漂っていた。
 日中は日中で、労働にかまける彼だったので、常に仕事に関連したもの、尚且つ、合理性のある物事にしか興味を示さなくなった。
 ある日、男の妻は彼にこう言った。
「あなたって、私たちにほんっとに興味が無いわね」
 吐き捨てられたその台詞に、男は「家族というのはそういうものだ」と返したが、本心はそれがどういうものかも理解せずに言った。確かに、彼は妻をしっかりと見ることをしなくなった。一女性として見てきた者が、母となり、母らしい振る舞いとその体格の変貌に、彼は戸惑った。女性は子を産み、子育てによって自然と母となっていくが、男性というものは、その苦悩と幸福を知ることは出来ても体得は出来ない。男にとって、父としての振る舞いは、世間一般に蔓延る理想像を見様見真似でやってみせるしかなかった。故に、彼は夫となると、どこか芯が無く、ふとした拍子に諦観的な台詞を発してしまうのだ。
 夫という立場の生産性の無さ。合理性の欠如。妻子に迎合しなければならないという、いかにも彼らしい仕事人間の観点によって、自己の生活と行為とを詮議し始める。
 男は家をとび出した。
 どこに何をしに行くか、自分でも分からなかった。とにかく、自分一人きりになって、自分の身に起こった過去と、自分に待っている未来のことを熟察しなければならない。衝動は彼をぐんぐん前進させ、気が付けば都会を出てしまっていた。
 人は何のために生きているのか。生まれてきたからには、誰かの役に立って死んでいきたい。若い時分、あれほど真っ当な人格でありながら、今や自分を孤独な存在であると痛感したわけだから、それが裏目に出ることで悲しみに襲われた。
 自分の生活を検討していくうちに、男は友人のこと、彼と最後に巡り合った際、彼が言った 【掟】のことを思い出した。自信を持って仕事をしていたが、こうした境遇に苛まれているのは、友人が男の説得に応じなかったのと同様、自分自身も友人の言い分を聞き入れなかったことに原因があるのではないか…
 少し留まって生活をしてみるという考えが、彼の脳裏に沸き起こる。しかし、冷静になってみると、この現状がそれほど絶望的でもない。こう思って、彼は再び自分の来し方いっさいを回想する。
 労働と歓楽、家庭における立場の勘違いが、愛の無い孤立無援を招いたとするならば、まずこの事実を受け入れよう。そして、友人の【掟】を加味することで、もっと自分に素直になれば良い。世間体に合わせ過ぎたため、却って冷酷無情な態度が常になってしまった。そうだ、好きな事をやれば良い。好きな事をやっていれば人と競うことも、争うことも、比べることも、いがみ合うこともないから、心が安らかな状態でいられるはずだ。心の平安が訪れると、きっと周りの人にも優しくなれる。勤め人としてこれまで受けてきた、圧制、嫉妬、侮辱…それら全てを愛で変えられるような仕事をすれば良い。いや、それどころか、夫としての在り方も今後は必要無いはずだ。たとえ、そうした振る舞いが身勝手であっても、私は私で幸福を求める人間のままでいられる。当時、酒場で見せた友人の温顔が、しみじみと思い出される。『そうだ』我が心に呟く。自尊心や強欲、世間体といった諸々の欲望のうちに見出しえなかった。私と同じような生き方に終始している人間は、みんな発見しえないのだ。みんな嫌な事でも忍耐強く、みんな苦悩にしょぼたれている。たとえ、群集心理によって、それが真っ当であっても、一度きりの人生に何の意味をもたらすのだろう。
 『…彼は今どうしているのか』
 男は真実に惹きつけられた。友人を訪ねてみることで、彼のその後の心境を聞いてみたくなったのだった。

【NOVEL】ある男の人生 第3話|Naohiko (note.com)

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

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