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【NOVEL】ある男の人生 第1話

【あらすじ】
田舎の雪国育ちである男が、成人になり、就職のため都会に出る。妻を迎え、子どもを持ち、一般的な家庭を築き、勤め人として日々暮らしていくが、自分の生き方への自問自答が常にある。一方で、男には学生以来の友人がいる。彼は、学者や教師などの学術関係で定職に就けるはずが、あくまでも自分らしいマイペースな生き方を貫いている。友人同士でありながら、価値観の違いから、口論になることもあるが、お互い苦悩と葛藤がある。世間一般、ごくごく平凡な人生ではあるが、人生の不思議さを描いた作品。

 それは、大国に独善的な男が大統領になった頃の話である。人種差別的観念は、主張するに分かりやすい時代で、タブーとするのは今は昔なのかもしれない。「問題になっていることを沈黙するようになったとき、われわれの命は終わりに向かい始める…」もしそうだとすれば、我々は声を上げ続けなければならない。
 これとは全く関係無いが、とある国の大都市に、立身出世を夢見る青年がいた。彼は貧しい雪国育ちで、将来、町の炭鉱夫になるはずだった。勉学意欲は人並みであったが、いわば雑学が豊富で、選り好みをせず知識にするという彼の姿勢が、彼自身の知恵と公正さを表していた。雪国から大都市は隔たっていたが、大都市の恩恵と損害は確実に受けていた。石油へのエネルギー転換が進むと、燃料としての石炭需要は大きく減少し、町の労働人口がどのような一途を辿るかは言うまでもない。
 男は地頭が良いので、当時十歳くらいには、この労働環境に危機感を覚えていた。それでも、時の流れを察しない身内の生活の愚劣さ、既成の秩序を変えようとしない周囲の大人の愚痴には、しばしば彼を当惑させた。同時に、自分のために忍耐強く働く両親を見て、申し訳なく思った。両親が自分らしい生き方が出来ていないのは、子供である自分にすべて原因がある。父の献身さは分かりにくく、母は身近なところで、少年だった男を懸命に育て上げた。親の人生を犠牲にした産物が、自分自身であると理解したとき、己の無知を恥じるようになった。
 男は十八歳になった時、権威ある学術研究機関の門をたたいた。勉学に励み、そこで気の合う友人と出会った。男は物理学を得意とし、その友人は数学を得意としていた。中でも、友人は解析学の方面に優れており、将来は研究者になるものと誰もが疑わなかった。
 二人が学業を終える年のことだった。友人は、てっきり数学者になるはずだったが、彼の母が重い病に倒れてしまった。彼は片親のもとで育った。一人っ子である。品行方正かつ孝行者の彼にしてみれば、母親のためであれば学問を中絶し、研究職を諦め、地元へ帰ることは容易だった。
 彼の決断に対し、男はその才能が失われることを惜しく思った。何とか残る方法はないのか説得を試みたが、友人は首を縦に振らなかった。
「ここにいては、母を安心させることが出来ない。一刻も早く定職に就き、家庭を築くことを優先するよ。それに、君には分からないかもしれないが、実のところ僕の研究は頭打ちになっていた。これ以上やっても、芽が出ないことを想像するだけで夜も眠れないのさ」
 男は、それを聞いて実に彼らしいと思った。同時に、彼のような人間でも、才能の限界を感じていたことに驚いた。二人は固く握手をし、これまでの感謝と互いの将来に期待をして、別れた。
 五年たった。二十七歳になった男は、自動車製造業の開発者として働いていた。本意である仕事に日々充実していたが、あまりの激務に逃げ出したくなることも多々あった。社会人であれば当然と言えば当然で、最初から上手くいかないのは、むしろ真っ当である。
 また、男は良き伴侶を得た。加えて、彼女には胎児が宿っている。彼ら夫婦は、自分たちが幸運であり、生きることと生かされていることが等しいものと悟った。
 ある日、男は仕事でとある田舎へ行かねばならなかった。偶然にもそこは、学生時代に親友であった友人の地元であった。二人は定期的に連絡を取り合っていたが、互いがどんな暮らしをしているか知らなかった。その夜、二人は適当な酒場で待ち合わせた。五年ぶりである。
 男は頬杖をついて待っていると、友人が店にやって来た。扉にある真鍮の鈴が、大きく鳴った。彼は男の隣に座ると、すぐさまウィスキーを注文した。
「お母さんの容態は」と男。
「死んだよ」と友人。
「いつ」
「四年前かな、卒業してすぐさ」
「そうだったのか…」
 一つ沈黙を数えると、友人は話し出した。
「それはそうと、君も立派になったね。その腕時計が良い証さ。さすが大企業だ」
 男は「いやいや」とだけ返すと、自身の近況を友人に話した。友人は彼の真っ当な生き方に感心する一方、少々悲観的でもあった。
「そういう君はどんな暮らしをしている。仕事は」男は聞き出した。
「うん、今は高校で講師をしている」
「…驚いたな、君は教師を目指しているのか」
「いや、もう教鞭を執るつもりはない」
 概して、講師とは教師の卵である。何か特別な事情があると男は察したが、もう少し踏み込んで聞き出すことにした。
「何かやりたい事があるのか」
「…」
「もう一度、学者を目指すとか」
「うん、それも一時考えた」
「…」
 友人の表情は穏やかだった。それを見た男は、いくらか安心したが、友人の生活振りが意外でならなかった。友人は再びウィスキーを注文すると、口を開いた。
「実は、去年まで教師として働いていたのさ」
「…つまり、君は教師から講師になったのか」
「そうさ」
「まさか」男は叫ぶように言った。
 藁をもつかむ思いで正規職員を目指すこの時代、自ら辞め非正規労働者になる理由が見当たらなかった。男にとって教職は門外漢ではあるが、その離職率の高さは耳にしていた。
「仕事が合わなかったのか」と男。
「ふふふ、だったら講師もやらないよ」友人は唇にグラスを止めて言った。
「それもそうだな…でも、君であれば再就職なんて容易に思えるが」
「ふふ、君は昔から僕を買い被るよね。逆に聞くが、君は今の仕事に満足かい」友人は男の眼を見て言った。
「満足って、随分なことを聞くな。大方の社会人は満足するために働いてはいない。現に雑務をこなす時間だって多いのだ。それでも、私には養う妻がいて、彼女の中には子供だっている。それが労働の意味にもなると思うが、一体どうしたというのだ」
 男にとって、友人の質問は幼稚に思えた。
「つまり君は、他者のために働くと」
「…誰が為にとかそういう問題ではない気がする。確かに、仕事に忙殺されることだってあるが、それは同僚も同じだ。我々はチームなのだ。乗り越えた時の達成感は素晴らしいものだ。それら報酬系が、資本となって、精神衛生上も向上し、家族への奉仕につながる。違うか」
「ふふ、実に真っ当さ。それでも、僕が懸念してしまうのは、勤労に対する忍耐強さなのだよ。僕が正規職員として勤めていた時もそうさ、あるようでない勤務体系、土日は返上、それでも聖職として働き続けていた。確かに、僕の数学的なセンスは同僚と比べても、頭一つ出ていたような気がする。だけれども、教えるというのは、また別な能力を必要とするのさ。思い上がりも甚だしいが、名選手が名監督になるとは限らないのと同様、僕は教育的な活動に情熱を注ぐことが出来なかった。
 学級づくりや部活動、校務に雑用など、何とかこなすことは出来ていたが、心には常にぽっかりと穴が開いていた。要するに僕は我慢ならなかった」
 友人は早口だった。自身の欲求不満さを恰も男へぶつけるようで、二十代の勤め人であれば、誰もが一度は思う愚痴に過ぎない。彼は、見るからに孤独であり、成長していなかった。履き潰したスニーカーに色味の無いチェックシャツは、学生の頃と変わらなかった。男は彼を不憫に思った。当時の彼をよく知っている男にとって、心境としては複雑であり、かと言って、相談に乗る程の境遇にも思えなかった。自我の芽生えが、今現在に至るのであれば、本人は納得している。いわば、モラトリアム期間である。
 彼は学生の頃、自身の得意なもので評価を受けていた。それ故に、範疇を超えたものが要求された場合、対処しきれない。優秀と言われ続けていた彼にとって、自分時間の崩壊が耐えられなかったのである。
「それで講師に…」男は呟いた。
「講師であれば、授業だけで済むからね。まぁ腹が立つこともあるが、好きな数学だけやって暮らしていけるなら、それでも良いかと思い始めたのさ」友人はあっけらかんとしていた。
「……不自由無いのか」
「不自由が無いと言ったら嘘になるさ。それでも、以前より今の方が自分の時間があるし、楽しいさ」
「自分の時間って……まるで、リタイアした人の言い草じゃないか」
「うん、まぁ一つ聞いてくれ」と友人は答えた。「確かに、君の言い分も理解できる。この歳で男がアルバイトなんて恥ずかしいものさ。だが、何も悪いことをやっているわけではないのだ。努力の方向性を模索しながら暮らしている。格好良く言えば、そんなところさ。そうだな、君のように家庭があれば、呑気なことも言えないだろうに」
「誰か良い人はいないのか」
「良い人どころか、近頃は人とも会っていないよ」
「…」
 友人の体たらくは、母の死が原因だった。男は、それを感じ取っていたが言い出せずにいた。それでも、敢えて厳しい言葉をかけようと決意したのは、彼が絶交を覚悟したからである。また、お互いが、お互いの生き方について往来してしまうのは、少々な若気であった。
「なぁ、聞いてくれるか。私は君のことを尊敬していた。その気持ちは今でも変わらない。なぜなら、私は君の可能性を信じているからだ。学生の頃、烏合の衆に群れることなく、私たちは自分をしっかり持って勉強してきたじゃないか。
 確かに、社会で要求されているものは、学問的素地の良さでは無い。君の心境の変化も多少は理解出来る。だが、努力の方向性…そんなものは働きながら考えれば良いじゃないか。良いかい、『二十代の苦労は買ってでもしろ』と言われるが、まさにその通りだ。我々の苦労は今でしか買えず、これを逃すと増々出遅れてしまうぞ」
「ふ、出遅れるという発想が僕にはもう存在しないのだよ。今一度聞くが、君は人のためであれば苦労を厭わない、いわば他人本位なところがあるね。けれど、本意のところはどうだろうか。僕みたいな学生優良、社会人ぼんくら人間でもこうして精神豊かに暮らしている。おそらく、今ここでストレスチェックをすれば、君よりも僕の方が良い数値を出すに違いない。そりゃそうさ、一度しかない人生を自由に生きて何が悪い。君の主張はステレオタイプの押し売りだ」
「押し売り上等だ。君は自由の使い方を間違っている。自由とは、制約の中で自在に生きることさ。君の現状は、時間の浪費に過ぎない。数学が好きであれば、教えるだけに留まるべきではない。君の才能が枯渇していなければ、もう一度、研究対象にしてしまえば良い。あるいは売り物に出来るだろう。好きな事であればもっと仕事の形を増やしてみたらどうだ。その制約の中で初めて、君は真の自由を感じ取ることが出来るはずだ」
「ふ、君の向上心には恐れ入ったよ。僕は何も人生に諦観しているわけではないのだ。僕はある掟に従っている」
「掟…」
「そう、それを遵守する力は人によって千差万別で、多く備えていればいるほど、足るを知る者は富むように善徳な生活が完成する。僕から言わせれば、君は世間体によって真っ当な人格を形成したのさ。その立場から言えば、僕の生活環境、将来の展望は不安ばかりだ。仕事、結婚、近頃じゃ老後を考えている若者だっているそうじゃないか。だが、人生とは成るようにしか成らないし、君の生き方が僕に適してなどいないのだ。もし、君が僕と同じような境遇であれば、生活のことをとやかく言わないだろう。つまり、君…いや、我々は主観でしかものを言えないし、客観的に物事を考えているようでも、認知上の限界がある。僕の幸福と君の幸福は、まるで観点違いなのだ。話を戻すが、僕は自己の喜びを求める本能に従って生きている。さっき君は達成感、やりがいという言葉を使っていたが、まさにその通りで、人間は誰よりも自己を愛すべきである」
「…君にとって、自己を愛するのが今の生活なのか。恰も努力しないことを正当化する自己欺瞞に聞こえるぞ。なぁ、今一度都会に戻ってみたらどうだ」
「それが僕にとっての幸福となれば、喜んで引っ越しをするさ。だが、君はまだ僕の生き方を理解していない。何も僕は、ずっと田舎暮らしを続けるわけではないのだよ。今現在が幸福と思える生活環境を目指している。その直感に従って生きていれば良い。僕の直感が君の生き方と合致すれば、こうも水掛け論にはならない」
 男はそれを聞き、友人の意思を尊重するようにした。しかしまだ、言い訳がましい人生観だと思っている。
 友人は男に、自身の生活を考え直してみたらどうだと逆に説き始めた。男は「考えてみるよ」とだけ言って、その場を濁した。
 その日の帰り道、男は友人の生き方に少しでも同情しようと考えた。
 仮に、友人の生活が自分を惹きつけるものとしよう。すると、彼の生活が既存の人生観に否定を必要とするのだ。しかし男は、仕事と家庭に喜びを見出しており、これを拒否することはもはや出来ない。確かに、家庭のために仕事があり、その逆だって成り立つ。家庭があるということは励みになる。家庭の有無は出世に影響する。だが、男は自身の意思が見当たらないことに少々戸惑った。さっきまで、友人に偉そうなことを言っていたが、彼の立場を思えば、身勝手な生き方に少し歩み寄れる気になった。
 翌日、都会へ戻った男は、休日を家族と過ごしている中に、自己の生活に紛れ込んでしまって、友人のことをすっかり忘れてしまうのだった。

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