【NOVEL】ある男の人生 第4話
男は生活を一変すべく、郊外に新居を構え、身の丈に合った生き方を目指した。会社での高圧的な態度を改め、模範的な上司になるよう努めた。休日は、娘の勉強を見てやり、家族との時間を少しずつ増やしていった。
半年ほど経ったある日、男は出張で近くの町へ出かけて行き、商用を終えると、適当な喫茶店で休憩を取っていた。
しばらくして、店の引き戸が開き、一人の男性が入店すると、つかつかと男の側に近寄って「久し振りだね」と言ってきた。
彼は例の旧友である。二人が出会うのは偶然ではなく、友人からの誘いだった。友人から出向いて来るのは珍しいと思った男は、仕事の合間を縫って会うことにした。店の中に入って、少し語り合おうと言ったのも友人である。二人の友は互いに相手の生活状態を訊ねあった。
友人の生活は、最後に会った時からこの方、特に変わっていなかった。相変わらず数学講師として高校を転々とし、今なお無妻だった。そこそこの収入で、無理をしない労働環境に慣れており、依然と全く変わらぬその風貌に男は少々驚いた。
男も身に起こったすべてのことを友に語った。二年ほど前、友人に会いに行こうとしたこと、その途中で見知らぬ男に巡り合い、彼に引き留められたこと、自分がその勧告に従って良き夫業をしていること、逐一話した。
「君も相変わらずだね。それで結局、君の心は晴れたのかい」友人は訊ねると、男は手にしているコーヒーカップをぴたりと止めた。
「…うん『心が晴れたか』というのは、一体どういうことを指すのだろう。確かに、以前の私に比べると、明らかに不平不満を言わなくなった。が、それが、自己のもろもろの充足を意味しているとは、正直言い難い。その日から別人を演じても仕事の量は変わらないし、むしろ増える一方だ。
結婚生活の方も正直に言うが、私を満足させてはいない。いや、暮らしは十分だが、そこに喜びだけをもたらすのは間違いだと気が付いた。無論、娘の成長は喜ばしいことで、活発な彼女を見ていると、富も名誉も不要なものと錯覚してしまう。だが、同時に重責だと近頃思い始めている。我々夫婦という者は、互いが欲しいがままに子を作ってしまう。しかし、その欲求は、人類の存続に対して配慮したものだろうか」
「ふふ、君もいくらか面倒臭い奴になってきたね。面白い、続けてくれ」「結婚した当座は、私たちはすっかり幸福だった。当時、君に説教をした程だったな。しかし、今ではもう互いが愛撫を求めることもなく、かと言って無関心でもない、時折不和も起こるが、取り立てるほどでもない…そうだな、こうした身の上話には結びが付きにくいから、上手く説明出来ないが…愛のために生きていくことが真っ当だと、私は思っていたが、どうやら人間は、愛よりも大切なことがあるのかもしれない。でなければ、人類はとうの昔に跡を絶っているに違いない。だって、考えてもみてくれ。結婚式で夫婦は愛を誓い合うが、その後離婚する連中は一体何なのだ。互いの愛だけでは、愛の意味を理解出来ていないことになる。壇上で、神父に誓い合うそれらは、差し当って高校球児の選手宣誓のようなものだ。正々堂々な意気込みは結構だが、結果に結びつかないのは愛も同じなのかもしれない」
「つまり、君のかつての幸福は、断言し難いものになっているわけだ」
男はコーヒーカップを置くと、頬杖をついて答えた。
「…生活を認めてしまえば、それは幸福へと通ずる。だが、認めてしまえば生活の向上が望めないことに葛藤がある」
男は、おでこに手を当てて目を塞いだ。
「なるほど、ところで君の趣味は何だい」友人は言った。
「趣味だと」
「そうさ、君は車が好きだったじゃないか」友人は足を組み直すと、男に答えを促した。
「確かに好きだが、二十代の頃とは訳が違う。家計を逼迫させないように、今は燃費の良い、つまらん車に乗ってるよ」
「うん、何故、つまらんと知ってそれを選択するのだ」
「…何が言いたい」
「僕からしてみれば、その選択に妥協と忍耐しか感じないのだよ。確かに、君は一家の大黒柱なわけだから、そうした選択に世間は納得するに違いない。自分がつまらん車に乗っているのは、家族のためでもあれば、家族のせいでもある。差し当って、君はその狭間で苦悩しているように思えるが、違うか。君は、自身の欲求を家族への奉仕を理由に我慢している一方で、自己を開放する場を見失っている様にも見えるのさ」
友人の主張に男は、いつだったか、彼の地元の酒場で語り合った時のことを思い出した。無礼千万になるのも、当時から互いの生き方が大きく異なり、平行線を辿ったからである。
「失礼だが、独身の君には理解出来ないのさ」男は腕を組み、独り言のように呟いた。
「ほら、それもまた我慢強い表れだ。言っておくが、その発言は、失礼でも何でもないよ。だが、もし仮に僕が妻子を持っていたとしたら、君のようにならない自信がある。僕は、自らつまらない選択をしないからね。たとえ『下らない、こんなものは無意味だ』と言えることにだって、面白味を見つける自信がある。尤も、近頃は、そういう物事に遭遇しないよう安住しているがね」
友の最後の数語に、男は彼の主張の核を見出したのだ。
「そう、君はやりたい事しかやらない。教師だった頃、その雑務が嫌で辞めたと言っていたじゃないか。良いかい、よく聞いてくれ。君の生き方は、お母さんの死が原因じゃないのか。学生の頃、あれだけ優秀だった君が、どうして途中で辞めたのか思い出してくれ。本当の孝行息子であれば、親の生死に関係なく、親を敬うってものが筋だろう」
「まさか、天国の母は今の僕を見て悲しみ哀れむとでも、君は言うのかい」「違う。実のところ、君だって、他人本位な生き方をしていたはずだと言っている。母を失ったことで、君は孤独を覚悟してしまい、人生を決めつけた挙句、徐々に投げやりになっていったのではないか。
今一度君に聞こう。その幸福に欺瞞的な要素は本当にゼロなのか。背広を決めて、あくせく働く男の姿に君は何も感じないのか。同世代の子連れ夫婦を見て、君は本当に何も感じやしないのか。言っておくが、私は普段、ここまで人に強くは言わない。君の場合は、恰もそれを自ら放棄しているようだから…友よ、どうか当時のような火のついた眼をしてくれないか」
すると、友人は鼻で笑いこう言った。
「ふ、僕の生き方にまさか母親の死を引き合いにされてしまうとは、君には恐れ入ったよ。確かに、それは否定しない。病院から母の訃報を聞いた時、自分の中でガラガラと何かが崩れた音がしたさ。当時、僕自身、繁忙期でね、立ち会うことも出来ず、簡単な家族葬で済ませてしまったのも、申し訳なく思っている。
だが、僕は自分自身を欺くような生き方をしていないと胸を張って言える。この主張は、数年前ともはや変わりはない。まだまだ三十代とはいえ、僕らもだんだん頑固になってきたね。加えて、この議題に関して僕らはどうも論旨が噛み合わない。僕はただ、君の顔を見たかっただけなのに、そこまで社会復帰を求めるならば、敢えて聞こう。
君こそ、自分自身の生活が上手くいっていないのに、なぜ友である僕にそれを薦めるのか。君自身が幸福を見出せていないのに、何故、幸福である僕にその生き方を薦めるのか。困難と分かって敢然と立ち向かう人間の真理を是非とも教えてくれないか」
友人はこう言って、離れ去った。男は釈然としないまま、しばらく席に座っていた。
【NOVEL】ある男の人生 第5話|Naohiko (note.com)
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