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【IDEA】「私」をデザイン
今回は「私」に関する記事です。これまでとは毛色が異なり、やや抽象的になりますが、人間が自分のアイデンティティを語る上で大切なテーマかと思います。
というのも、会社や学校の面接試験では…
「あなたの長所、短所を教えてください」
「自分を○○に例えると、何だと思いますか」
「1分間で自己アピールをお願いします」
など、「私」という人物を他者に伝える場面があると思います。前もって準備はしますが、口下手だったりすると結構大変です。
履歴書やエントリーシートなど、文章で自分を表現する場合もありますが、いずれにしても、試験ではない限り自分自身を真剣に考えるタイミングは案外少ないです。
学生らの話を聞いていて、よく耳にするのが、自己分析や他己分析、適職検査など、自分の性格を知るシートやツールを利用するものです。個人的には、それらを使う前に「自分について自分でちゃんと考えてる?」と聞きたくなります。
偉そうに言いましたが、今年で37歳になる手前、何だか中学生にでも戻ったような気分でまとめてみたので、良ければ読んでみて下さい。
【どこまでが私なのか…】
そもそも、「私」として認めている範囲って、曖昧な気がします。例えば、髪の毛。自分の頭から生えていて、髪型として自分が認めていれば、「私の髪」として存在していますが、床屋や美容室で切ってもらうと、そんな気持ちは無くなります。「あぁ、私の一部たちが床に落ちていく…」なんて思いませんよね。
髭や爪も同様かと思います。余談ですが、先日、親知らずを抜歯しました。施術後「抜いた歯、どうされますか?」と聞かれたので「え、処分していただいて良いですが、持って帰る人いるんですか?」と、思わず聞き返してしまいました。どうやら、記念に持ち帰る人がいるそうです…
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私とは可変的であり、流動的である。
上記の意味は「『私』は変化が可能であり、状況に応じて変わるものである」ということです。つまりは柔軟性です。その変化をどこまで認めるかは、本人によります。
【でも私たちって…】
ただ、世間で「私」が話題になるのは、切られた髪の毛や爪ではなくて、要するに「私らしさ」かと思います。ましてや、親知らずでもありません。
ですが、「私」として認めている人体の構成は、実は皆、概ね同じです。
例えば、一般成人であれば、体重の約4%は腸内細菌、約10%はミトコンドリアです。そもそも、約60%は血液やリンパ液などの水分で構成されています。
「私」という器を維持するために、日夜働く細胞や細菌たちを「私」として認識するのは困難です。日頃、顕微鏡やレントゲンで人体を診ている医者や研究者でも「あ、これは私らしい腸内細菌だ」とは、ならないと思います。
大体の人は、細胞レベルでは「私らしさ」なんてものは考えていません。
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”足りない何か”とは…それこそ「私」です。
【再び、どこまでが私なのか…】
詰まる所、「私」とは自意識レベルの話かと思います。上記の漫画の主人公エドワード君も頭を悩ませていますが、それこそ「私」という自意識がなければ、一人間には成り得ません。「自我」と言い換えても良いと思います。
だからこそ「自分のことをちゃんと考えなくてはならない」と思います。自意識がブレなければ、「私」もブレません。尤も、「ちゃんと」という表現が曖昧ですが…
髪や爪などを切り、身なりを整えた私は、整える前の私と変わらないものもある。街行く人の中に、もう一人の私は存在しないが、実は皆、私と同じものでできている。私とする範囲も、それこそ可変的で流動的なのかなと思います。
ただし、「私」の認識範囲を見誤ってはいけません。
【おわりに】
今回は以上になります。ここまで、読んでいただきありがとうございました。これからも、本や漫画、映画などを参考に私の考えを投稿するので、よろしくお願いします。